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短編小説「ぬめぬめ」

「ときどき、取り返しのつかないことをしたくなるのです」

 いつかのテレビ番組で、女性アイドルが話していた声を、わたしは今思い出していた。お笑いの人たちがひな壇に並んでいるようなバラエティ番組だったように思う。その女性アイドルは今から十年ほど前にヒット曲を連発していて、正統派アイドルというよりは少し言動におかしみのある天然キャラのようなところがあり、最近ではバラエティ番組でコーナーをもつようなタレント活動をしている。

 その女性アイドルの言葉に司会者が大げさにのけぞって言っていた。

「取り返しのつかないこと? それっていったいどんなこと?」

 女性アイドルは、たっぷり間を持たせて逡巡してから言った。

「それは、たとえば……、部屋の中でチョコレートソースの水鉄砲を発射しまくるようなことです」

 スタジオは笑いの渦になった。女性アイドルだけが真ん中でぽかんとした表情をしているのがカメラに大写しになり、さすがは天然キャラというようなテロップが流れていたように思う。

 それを見ていたわたしは、笑わなかった。 むしろ彼女に深く同意した。

 あるある。そういうことってあるよね。

 なんの益にもならないことをして、なにかをぐちゃぐちゃにしたい気持ち。

 チョコレートソースくらいで気が収まるのなら、かわいいものだわ。

 わたしは歩きながらクスッと笑った。その回想は、いまの心境を少し軽くした。なんとも言えない重たい気持ちを抱えながら、わたしはいま札幌市豊平区にある自宅近所の地下鉄駅前のにぎわう通りを歩いているところだ。 

 うだるような暑さなのに、どこか寒々しい気分のする八月最後の土曜の午後である。無職のわたしにとって、土曜日というのは少し居心地の悪い曜日だ。ファミリー連れとか、カップルとかが、まるでこの世界がかがやいているかのような表情で歩いている。そこらじゅうに週末の余暇の喜びが蔓延している。この感じが実に苦手だ。余暇とは、奴隷制度から始まる労働の対極にある言葉ではないのか。働いていない優雅なわたしには余暇欲求などないのだ。そのかがやかしい表情は労働から解き放たれた奴隷のつかの間の幸福であろう。だからうらやましくなどはない。そしてまぶしくなんかないのだ……。 

 わたしの苛々した思考が罪のない人々へ鋭く向けられる。ちょっとコントロールのできないほどにその苛々は増大し、意地の悪いものに変容していく。

 きっとこの暑さのせいだ。こんなふうに莫迦みたいに暑い日には、自分の中の覗き込めないほど奥底にある不愉快な生き物が、ぬめぬめと出てくるものなのかもしれない。このぬめぬめに、出口を与えてやらなければならない。犯罪でないものがいい。それはたとえば、チョコレートソースの水鉄砲を、家の中でそこらじゅうに発射しまくって、家具も家電もめちゃめちゃにしてしまうようなひどさをもっているものがいい。それでぬめぬめは気が収まるはずだ。

 それにしても暑い。湿気もひどい。毛穴から汗が出る。

 道路も電信柱もそこを歩いていく犬までもがただれた黄色い景色の中にいて、わたしを苛々させていた。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 わたしは暑さの中を歩きながら、ここ数か月の自分の人生の、転がり落ちるような変化を思い起こした。

 つい数年前まではわたしはなんの悩みもない函館の女子高生だったのだ。毎日のように友達と笑い転げて、楽しいことが明日も続くとしか思っていない幸福のなかにいた。

 函館から札幌の短大へ進み、その楽しい日々は継続した。人生は無邪気な幼少期の少女を取り巻く平和な日々からまっすぐに今日まで続いているとしか思っていなかった。そして三月に短大を卒業し、四月から社会人になったところまではよかった。男女雇用機会均等法施行の折、女子社員は新人歓迎会でも激励された。

 実にうきうきする春の到来だった。自分の将来が白紙のノートのように可能性に満ちており、自分は元気よくそこへ踏み出したのだと思っていた。
ところがそこへ大失恋が起きた。ふんわりと人知れず片思いしていた学生時代のサークルの先輩から連絡が来て、告白されたところまではよかった。夢見心地でつき合い始めた二週間後に「もう勘弁して」と言われて振られた。「もう勘弁して」の意味を問いただす勇気もなく、なぜか「ごめんなさい」と謝って、わたしはとぼとぼとその恋の舞台から退場した。あとで聞いたところでは、もっと発展的な大人のつき合いを望んでいた彼が、わたしから毎日のように来る少女の交換日記のような素朴なメールの幼さにへきえきしたようだ。それにしても「もう勘弁して」と言われたことには、胸に大きい釘が撃ち込まれたようなショックを受けた。その釘は、今日も刺さったままだ。わたしはその釘を直視するのを避けるため、日々生きる意味を会社の仕事をがんばることに切り替えて、失恋のことを頭から抹消するように努力して暮らした。

 しかしその会社が、七月に倒産したのだ。

 社長が一念発起して始めた社員二十名の小さなイベント会社だった。残業も多く、土日出社もざらだった。イベント運営をはじめ、協賛広告の営業、ノベルティの手配、パンフレットの作成など目が回るほどの業務量だった。朝早くから夜遅くまで社員一丸となって働いていた。社員同士の仲もよく、三組もカップルができた。毎日が大学祭の準備のような日々だった。

 その日々に唐突に終わりが訪れた。それは七月になっても続くしつこい蝦夷梅雨の合間の日だった。明け方までずっと続いていた雨がカラリと晴れあがった金曜日の朝、社長が全員を呼んだ。みんな事務室中央に輪になって集まった。社長は社員たちの顔を見ないように俯いて、「もう三か月も皆さんの社会保険料を払っていません」と切り出した。動揺するわたしたちに社長は「会社は倒産のための整理に入ります。皆さんそれぞれ次のステージを……」といつもの朝礼と同じような口調で言った。

 青天のへきれきだった。あまりに驚きすぎて、当事者として向かい合うことができなかった。コミカルなオペラのワンシーンに演者として参加しているようなふざけた状況にしか思えなかった。

 ほかのみんなはそれぞれが現実的に受け止めているようで、当事者の反応をしていた。ショックを受けた顔、呻きのような声、隣同士で話をする者たちの囁き、当事者たちのざわめきが事務所の中で嵩を増していった。場の緊張感がゆっくり膨張していくのにわたしはとても耐えられなくなり、「どういうことですか」という質問の声が矢継ぎ早に上がるのを背に、ひとり会社からよろよろと出た。ビルを出て向いの喫茶店へ転がり込むように入ってアイスコーヒーを飲んだ。

 ときどき同僚とハンバーグランチセットを食べに来ていたなじみの店だった。木目調のインテリアで暗めの照明が落ち着く。ステンドグラスのような細工が施された窓際の席が好きだった。モーニングが終わった頃で閑散としているその店で、窓際に座り、ステンドグラス越しに札幌の街を走る車を眺めながらアイスコーヒーを飲んだ。雨あがりで車道には大きな水たまりがあって、シャーシャーというタイヤが水の中を走る音がしじゅうしていた。

 倒産だってさ。

 頭の中が混乱している。なんの脈絡もなく、小さい頃にシロツメクサを摘んで遊んだ実家のそばの空き地のことが思い出された。シロツメクサを摘んでいたあのとき、わたしはシロツメクサのことしか考えていなかった。世界は優しくわたしを包んでいて、家に帰れば母親がいて、夕食の支度ができていた。わたしにとって人生とはそういうものだった。家族とか友達とか音楽とかスポーツとかテレビ番組とか。そういうものが毎日暖かく目の前にある安心できる連続が人生だと思っていた。その連続がある日こうしてぶちっと切れるだなんて、思ったこともなかった。

 アイスコーヒーを飲み終わってからもう一度会社に戻ると、もうみんな席に戻ったり外出したりしていた。「冗談じゃないよ」と怒っている人、早くも引き出しの中のものを整理し始めている人もいた。昨日までと違うその光景を見て、ここがもう居場所じゃなくなったことだけはわかった。

 わたしは総務課へすたすたと歩いて行って、「きょうで辞めます」と言い、そのまま会社をあとにした。

 それ以来、いろいろな手続きはあったけれど、毎日会社へ行く生活は終わった。糸が切れたように、自由になった。それはハッピーな自由ではなかった。ぞくりとした不安を内包した自由だった。わたしは生まれて初めて、安心の連続からはみ出た存在となった。

 朝はだらしなく寝坊して、帽子を目深にかぶってコンビニへ行く。ときどき銀行や郵便局へ行く。暗くなる前に帰ってきて、テレビの前で夜中まで過ごす。

 いつも胸のなかを乾燥した風が通り抜けているような感じだった。あっという間に夏が過ぎてもう八月も終わりだ。まったく、たちの悪い冗談のような夏だった。

 観測史上初の暑さだというニュースが何度も流れたこの夏を、わたしはほとんど自宅にこもって暮らした。

 ときどき泣いた。せめて彼氏がいれば違うだろうと思い、彼氏ができるには、とインターネットで検索をしてみたりした。恋愛運アップにはピンク、鳩のモチーフはあなたに幸せを運んできてくれます、など本当かどうかわからないような情報がだらだら出てきた。さらに、ピンク、鳩、で検索すると、ピンク色の生地に鳩のイラストがたくさん描かれたプリント柄のカーテンの通販サイトに行き当たった。これを買えば彼氏ができるのかもとそのカーテンを買った。数日で配達されたそれはずいぶん小さい段ボールに入ってきた。ダイニングテーブルの横の窓にさっそく飾った。布地を広げられた鳩たちは伸びやかに生地の中で飛んでいた。

 函館の実家の両親からはしょっちゅう電話が来た。父は会社の社長に抗議の手紙まで書いた。日々、両親から「これからどうするのよ」、「次の仕事は見つかったのか」という質問を浴びせられ、あいまいにへらへらと笑って電話を切るのだった。

 ちょっと悪いけど放っておいてほしい。もうすこしこのままショックを受けた状態でいさせて。まだこのショックを直視することもできていないの。

 そんなふうに言いたいけれど、うまく言葉にならないまま、無言を選択して誰にも説明不足のまま自宅に引きこもっていた。そもそも自分が自分に説明をできないでいた。

 学生の頃から少しずつ貯めていた預金額はもう二十万円もない。なんとかしなければ、と求人情報誌を買ってきて、すぐにできそうな単発のアルバイトを探す。

 水商売は無理。コンビニのレジは難しそう。のろまだから工場とかも苦手そう。チームでの仕事は厭だな。一人だけの単純作業で、その日だけのあとくされのない、わたしでもできそうなものはないかな。

 ページを繰りながらわがままな条件が膨らんでいく。ふと、一つの求人が眼に入った。

〈かわいい着ぐるみを着てティッシュ配りをするだけの、楽しくて簡単なお仕事です。経験不問。先輩スタッフが手厚く指導します!〉

 電話をかけると、軽快な話し方の人が出て、あれよあれよという間に最寄り駅の地下鉄駅で不動産会社のキャラクターの着ぐるみを着て、平日の朝の昇降客にティッシュを配ることになった。どんな着ぐるみだろうということが心配だったが、事務所で対面した着ぐるみは、うすいピンクのうさぎだった。悪くない。

 着ぐるみを着るという行為は、最初は抵抗があったが着てしまうと不思議と恥ずかしくない。自分というものがどこかへ行ってしまったような感覚が面白い。そして着ぐるみのせいだからか、わりとティッシュをもらってくれる。初日三時間やって、これなら楽勝だと思った。一週間続けた。上手だとほめられたりもした。二週目から、今度は隣のH駅でお願いしますと言われた。H駅……、少し嫌な予感がした。H駅は、短大時代から仲の良い女友達が通勤している駅だ。しょっちゅうメールするその女友達に、会社が倒産したことをなぜかまだ打ち明けられていない。順風満帆で仕事への意欲に満ちている彼女が、どんな反応を示すのかが怖くて、報告を先延ばしにしている。

 そしてその予感はすぐに的中した。通勤の群の中にその友人がいたのだ。無彩色のスーツ姿の群れに彼女だけにスポットライトが当たっているように見えた。ぱりっとしたスーツを着て、セミロングの髪は肩先でカールしていて、買ったばかりのようなブランド物のバッグを肩にかけて、右手にはパールピンクのパスケースを持っていた。闊歩する足元は汚れのついていないぴかぴかの白いパンプスを履いていた。彼女はわたしのほんの5センチ前を横切って行くとき、ちらっとこっちを見た。そして見たことのないような三日月のような形の微笑みを口元に浮かべて、地下鉄駅へ颯爽と消えていった。

 たぶんわたしのことをわたしとは認識していない。けれどティッシュを配るうさぎ、とは認識しただろう。あるいは、平日の朝にうさぎの着ぐるみを着てティッシュ配りをするアルバイトさんごくろうさん、と思ったのかもしれない。本人にとってはほとんど無意識であろう、一瞬の渇いた微笑みをわたしへ投げて、彼女は朝の光の中をビジネスマンたちにもまれながら爽やかに出社していった。彼女が今日という日を当たり前に過ごす権利のある社会的にしっかりした居場所へ。

 あまりに爽やかだった。光が影を生ずるように、わたしはそのときまったく影だった。自分を影だと思ったのはそれが初めてだった。わたしは彼女に声をかけることができなかった。着ぐるみを着てティッシュを配る自分に、気づいてほしくなかった。しきりに自分のことを恥ずかしく思った。

 その日はこみあげてくる涙をこらえながらティッシュを配った。決められていた時間が終わるとすぐに事務所へ一目散に向かい、所長に辞意を告げた。所長は驚きもせず、バイト代の清算のことを説明した。そして最後に「クリーニング代を引きます」と言った。わたしはこの十日間で慣れ親しんだあのうさぎの着ぐるみの内側に着いたわたしの汗のことを思い、少し傷ついた。

 あのアルバイトをやめてから、二週間以上が経つ。

 わたしはそのほとんどの時間を、カーテンを閉めきった部屋で過ごしている。

 どうも精神状態がおかしい。

 ただ、失恋しただけなのに。ただ、会社が倒産しただけなのに。ただ、お金がもうすぐなくなりそうなだけなのに。ただ、着ぐるみバイトをしただけなのに。

 泣きそうな気持ちと、いらいらする気持ちが、不快に混じりあっていた。ずっと涙をこらえたままのような、叫ぶのをこらえたままのような、不安定な気持ちが続いていた。

 鳩のカーテンを引きっぱなしの薄暗い家の中にいるのも飽きて、わたしは涼しくなる夕暮れを待たずに、誰もがごきげんな土曜日の午後の通りに出てきてしまった。

 わたしの住むアパートがあるあたりは、二十数年前の宅地ブームで建てられた閑静な住宅が立ち並んでいるが、当時若い家族が放出していた浮かれ気分の残滓のようなものが埃をかぶって放置されているような家並みだった。

 それは南欧風を目指しているであろう小ぢんまりした庭とか、本来そこで紅茶を飲みながら読書をするためにつくられたであろうサンルームにずらりとかかっている洗濯物とか、階段のずっと高いところにあるために誰にも拭かれない丸窓とか、そういうものの並びだった。通りには、埃のかぶったベンチやら、枯れかけた花壇やらを配しただいぶ古い舗道。さびついた街灯。旧式の信号機。忘れ去られた電話ボックス……。要するにぱっとしないのだ。

 それでも通りにはわりと通行人が居る。余暇を過ごしているのだ。平日に居場所をもつ人たちが、そのことを誇らしげに「ああやっと週末だ」と言いながら楽しそうに歩いているのだ。この暑いさなかに。冗談のように暑すぎる午後に。

 ゆらゆらとかげろうのように立ちのぼる熱気の向こうに、幸せそうなカップルが歩いている。彼女が彼氏にもたれかかるようにして歩いている。彼氏は彼女の腰ごと抱いて受けとめている。

 そういうものを見ることで、わたしはどんどんやさぐれていく。

「どけ」

 わたしは前を歩くそのカップルに心の中で命令する。カップルは、どかなかった。

ベビーカーを押したママと、小さい男の子を連れたパパの家族連れが、舗道の横幅いっぱいに近づいてくる。

「こっちへ来るな」

 わたしは頭の中で家族連れに指令を送る。指令は届かず、むしろその小さい男の子がわたしのほうへぶつかるように走ってくる。

 いらいらが沸き起こり渦巻いて結局自分だけを苦しめる。
歩いて八分のコンビニエンスストアに行って帰ってくると体じゅう汗だくになった。

 エアコンをつけっぱなしの自室に帰ると、ぞくぞくした冷気が躰を冷やす。決して快適な空気ではないが、うだるような、あの莫迦みたいな暑さから解放されるだけでいい。

 相馬さんから電話が来たのは、それから小一時間経った頃だった。

「あらあ、いらしたのね」

 わたしが電話に出ると相馬さんは名乗りもせずにそう言った。

 あの着ぐるみバイトをしたことで、唯一わたしの人生にもたらされたものは、この相馬響子さんとの出会いである。

 わたしよりも少なく見積もっても五歳程度は年上であろう相馬さんは、あの着ぐるみバイトの事務所で働いていた。バイト期間の十日ほどの間、よく話しかけられた。お菓子をくれたり、愚痴を聞かされたりした。

 相馬さんは、わたしが所長に辞意を告げたとき、パソコンごしにこちらをそっと見ていた。そして帰ろうとするわたしの腕をぐいっと引っ張り、「影が真っ暗よ。おばけみたいな顔をしているわ。あなたのことが心配です。ご連絡先を教えて下さらない?」と半ば強引にわたしの電話番号を聞き出したのだった。

 わたしはなんだかめんどうで、メールアドレスでも携帯電話の番号でもなく、自宅の固定電話の七桁の番号を口頭で伝えて、さっと帰ってきた。

 ところがこの七桁の番号へ、実に頻繁に相馬さんは電話をかけてくるようになった。どうやらわたしのことを心配しているらしい。またはていのいい話し相手を見つけたと思っているのかもしれない。

 相馬さんは最初に電話をかけてきた時から、それが当たり前のように長電話をした。どうでもよいような無駄話を延々としながら、「ちょっとお待ちになって今ビールを持ってきます」、「アイスクリームを冷蔵庫から出してきますわ」と何度も受話器を置いてはなにかを取ってきてまた話すのだった。そして、「ああ、これではめんどうね。会ってお話いたしましょう」と言うようになり、この二週間で三度もわたしの家で長い夕食を食べていった。

 また今日もこれから来るという電話なのだろうと思いながら、わたしは「はい、居ましたよ」と言った。

「カゲちゃん、なにをしていらしたの?」

 美景と書いてミカゲと読むわたしの名前を、相馬さんは「カゲちゃん」と呼ぶ。

 きっとまた三越やパルコのあるあの街角からかけてきているんだろう。信号のピポ、という電子音でそれがわたしにはわかるのだ。

「死んでました」

 相馬さんが高笑いする。

 大柄で髪の毛が長くて声が大きくピアノ教師の相馬さんには、三越の前で高笑いするのが似合っている。きっと今日も大柄のスカートをはいているのだろう。相馬さんのズボン姿を見たことがない。いつも白いブラウスにスカート。そのスカートの柄が、絵画展のようにいつも変化する。

「わたくし今からあなたのおうちに行こうと思うのよ。水ようかんを食べましょう。すてきでしょう」

 相馬さんは、とてもすてきなアイディアのようにそのセリフを口にする。

 わたしはこんな莫迦みたいな暑い日に、水ようかんなんて全然食べたくない。だけど、こんな確信を持った相馬さんの提案を取りさげることのできる人物なんて世界に一人でもいるだろうか。いつもこうやって相馬さんが世界を創っているのだ。今日は水ようかんを食べる日になったのだ。たった今そう決まったのだ。

「食べます、食べます」

 エサに尻尾を振る仔犬のように、二回繰り返す自分に苛々する。

 気づいたら電話は切れていた。あの三越の前から地下鉄に乗ってうちに来るまであと三十分弱というところだろう(水ようかんはもう買ってあるんだろう)。

「また自由な夜が消えた」

 わたしは電話を切ったあと、しばらく相馬さんのここ最近のわたしの生活への浸食度合いについて思いを馳せていたが、ふと我に返って準備をするべく立ち上がった。

 立ち上がったはいいが大した準備はない。

 この家は散らかるにいいだけ散らかっている。しかしわたしはこんなときのために、ダイニングテーブルにだけは物を置かないようにして暮らしている。わたしはダイニングテーブルというものを異常に崇拝していて、「絶対にダイニングテーブルのうえにものを置かない」ということを死守して生きてきたのだ。

 奥の寝室は、誰にも見せられないくらいに散らかり放題だが、ダイニングだけには清浄な空気がいつも流れている。この三畳ほどの空間が、わたしの聖地なのだ。

 わたしはふと思いついて、キッチンでブーンと音を立てているハーベストグリーンの冷凍庫の扉を開けた。わたしはなんといっても冷蔵庫の扉を開けることがとても好きだ。この冷蔵庫は女の一人暮らしにしては大きいが、がばっと扉が開くのに惚れて中古のものを買った。扉を開けると、ぱっと光が点くのが好きだ。いや、冷蔵庫の光は「ぱっと点く」ところなんて絶対誰にも見せない。だからひょっとしたら扉を閉めているときもいつも煌々と点いているのかもしれない。扉を開けるのと点くのが同時だなんて誰にも確かめられないのだ。そういうところが小憎らしくて好きだ。それにわたしは冷蔵庫の中のこの明かりの色がすごく好きだ。こんなに変な風に違和感をもって人工的に光っている場所なんて地球上で他のどこにあるだろう。夜明けの散歩をするときにジージーと音を立てて夜の残りのように光る自動販売機の明かりもとても好きだけれど、冷蔵庫の明かりのような絶対的違和感には敵わない。

 扉を開けると冷蔵庫の中にはころんとひとつのリンゴがあった。わたしはこのりんごをよく晴れた初夏の土曜日になんとなくスーパーで買った。それからぐずぐずして食べないでいるうちに数か月が経ってしまった。食べ頃は完全にのがしている。きっとぼけたような微妙な味がするだろうと冷蔵庫の扉をあけてこいつを見るたびにそう思う。けれどもこれを食べるということは、一つの敗北のように思うので手が伸びない。ぼけたりんごを食べるようなこと。そういうものを自分の人生に作りたくない。かといってこのりんごを捨てるのは忍びない。腐敗もせず不思議なほど変わらない外見のままに在るこれを、捨てるという行為には至らない。よって数か月、この不可思議な均衡の保たれたまま、りんごはここにころんと居続けている。

 わたしの生活にはこういう意味のない均衡が数多くあるように思う。ちょっとしたことで崩れてしまうのだ。会社が倒産してから転がり落ちていくようなわたしの生活に、こういう小さい均衡をもっと作らなければと思う。そうしなければバランスを失ったわたしがいったいどうなってしまうだろうと恐ろしい。相馬さんの浸食をむしろ積極的に許そうとしているのも、きっと均衡をつくっているのだろうと自分で思う。

 さて、相馬さんが来ちゃうぞ。

 冷蔵庫をどうして開けたんだっけ。そうそう、三日ほど前の暑い日に、なんとなく製氷皿に氷をつくっておいたのを思い出したのだった。いつもは製氷皿なんてカラカラに乾いたまま引き出しに入りっぱなしなのに、氷のカランコロンという音を聞きながら夏の夜の網戸からの空気を感じようと思って氷を作っておいたんだった。

 それから毎晩雨が降ったので氷の出番はなかったが、今日のこの蒸し暑い夕暮れに、相馬さんはいつものようにお酒を飲みたがるだろう。水ようかんなんてどうせ最初の十五分で食べてしまうんだから。そのあとが夜半まできっとずっと長いんだ。今日あたりはジントニックを所望してくるかもしれない。だからクラッシュアイスを作っておこうと思ったのだ。

 わたしは氷を流し台へ運んだ。ふきんに氷を置いて、アイスピックで氷を砕いていく。アイスピックはいつも使っている景品でもらった安っぽいものじゃなくて、食器棚にしまってあった西洋のサーベルみたいに鞘に入った格好いいやつを使うことにした。少しでも気分をあげたい。

 氷を砕くのはなかなか集中力のいる作業だった。冷たいものを触っているのに汗がしたたる。けっこうな重労働だ。さっき部屋が冷えすぎてエアコンのスイッチを切ったんだった。しかし、いま手をとめてタオルで手を拭いてエアコンのスイッチを入れに行くのはいかにもおっくうだ。このままクラッシュアイスを作り終えてしまいたい。相馬さんはもう地下鉄を降りて、角を曲がったところかもしれない。

 おでこからの汗が右目に入り、思わずまばたきをした。その瞬間、アイスピックが左手の甲を突き刺した。びっくりするような量の血液が出てきた。つくりかけのクラッシュアイスとふきんが見る見るうちに鮮血に染まる。ああ、わたしは女だからこんな大量の血をみてもパニックにはならないんだと思う。痛さはない。ふきんで止血して、氷で冷やす。神よ、処方に必要なものは備えられている。

 血が止まると、作りかけのクラッシュアイスを三角コーナーにぜんぶ捨てた。いったいどこのだれが血に染まったクラッシュアイスでジントニックを飲みたがるだろう。

 わたしは肩でため息をついてシンクに体重を預けた。なんだか疲れたのだ。

 そして今しがた自分を刺したアイスピックをじっと見つめた。やっぱりこのアイスピック、少し変だ。そもそもの出会いからして変だったのだ。

 あの日も暑い日だった。

 去年のお盆休み、わたしは函館に帰省していた。そうだ、あの頃は無邪気で幸福なレールの上になんの不安もなく乗っかっている人生だった。

 実家にいてもつまらなくて、退屈な午後を散歩して過ごしていた。

 ハリストス正教会をどの角度から見下ろすのがいちばんきれいなのかを知りたくて、函館山から港へいくつもある坂道をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていた。あまりにやりすぎてあほらしくなって、とぼとぼと細かい路地ばかり選んで港のほうへ降りて行ったときに、あの小径に入り込んだ。

 お昼はたしか実家でホットケーキを食べたんだった。何枚も食べ過ぎて少し運動したいから余計に歩いたっていうのもある。とにかくただぶらついていた。午後はまだたっぷりあったし、空は青く輝いていた。

 そうしたら、せまいせまい小径を見つけた。石畳みたいになっていて、建物も古い感じで、陽射しも届かない薄暗い小径。

 わたしはすぐにその小径を気に入った。そしてその小径を「中世への入り口」って名づけた。わたしはそうやってなにかに自分流の名前をつけるのが好きなのだ。

 その小径、「中世への入り口」へ入っていった。誰も歩いていなかった。左側の何軒目かに、過去の匂いが充満したような古道具屋があった。わたしはなぜか心惹かれてその古道具屋の前で立ちどまった。店の前にはワゴンが出ていて風化して粉になってしまいそうな商品たちが並んでいた。

 そのときひとつのものがきらんと光ったようにわたしにはみえた。

「サーベル?」

 最初はそう思った。中世からの連想かもしれないけれど、鞘に入っていて柄に繊細な彫り物がしてあったし、全体ににぶい銀色をしていたから直感的にそう思った。ところがよく見ると「アイスピック3000円→2500円」と書いてあった。

 サーベルみたいなアイスピック、格好いい。けど少し高い。わたしの頭にそういう思考が浮かんだけれど、足は店内に向かっていた。そのアイスピックを持って。奥まったレジには人かどうかわからないくらい暗いお兄さんみたいな人がいて、「2500円」だけ言った。わたしは無言で財布を開いてジャスト2500円を彼に払うと、簡易な茶色い紙袋に入れられたそれをもっていそいそと店を出た。なんだか闇取引っぽいと少し思った。

 それ以来、このアイスピックは買ったまま我が家の食器棚の奥にしまわれていた。それをなぜかいま思い出して、クラッシュアイスをつくるのに使ってみたのだ。なのに、こんなふうに怪我をしてしまった。サーベルを模して造られているから使いづらかったのか、あるいは中世の騎士のなにがしかの想念が宿っているのか。

 まさか。ぶるっと震えが来た。

 そこへタイミングよくブザーが鳴った。ひゃあと息を吸い込むような変な声が出た。

 相馬さんが来たのだ。

 ブザーの気品のない人工的な音のせいで一気に現実に引き戻された。この、ブーという間の抜けた音をわたしは鳴るたびに嫌悪している。この音を聞くたびに今に引っ越してやるぞ、と思う。うちのアパートの古さはこういうところに顕著に出る。ピンポン、と鳴るかわいらしいチャイムではなく、ブーというふてぶてしい音を出すブザー。とても無粋である。それでも掃き清めた半畳の玄関に、季節の花など飾ってはある。

 はあい、と返事をしてドアを開けた。気づかれないようにふきんで左手を止血しながら。

「おまたせいたしましたわね、カゲちゃん」

 相馬さんは、待たせた観客をねぎらう舞台女優のように華々しく我が家に登場した。

 本日のスカート絵画展は、シャガールのような色彩豊かな柄だ。大きなリボンを胸元に結ぶデザインの真っ白なブラウスを着ている。

 マスカラで濃くボリュームアップされたまつ毛に覆われた瞳が、わたしの左手をじっと見た。

「カゲちゃん、左手から血が出ていますわ」

 すぐにばれた。

「カゲちゃんが、ケガ。回文?」

 いいえ、ぜんぜん回文じゃありませんよ。

「ふふふふふふふ」

 いやいや、ちょっとは心配してくださいよ、こんなに血い出てるじゃないですか。

「悪霊退散」

 相馬さんは意味の分からないことをつぶやき、勝手に洗面所に行って念入りな手洗いとうがいを済ませ、ダイニングテーブルにこれまたシャガールのような謎の絵柄で、食卓には無粋なほど派手なのではないかと思われるショッキングピンクと黒とミントグリーンの配色のペーパーナフキンをでかでかと敷く。

「抹茶味の水ようかんの緑色を、このピンクが引きたてるのです」

 なにかのコマーシャルのナレーションのように、ド派手なペーパーナフキンをなぜか四枚並べて敷く。

「どうかしら?」

 ええ、一気に我が家のダイニングが相馬化しました。

 そんなことはとても言えず、わたしは「ああ」と「ええ」の間のような声を漏らしながら、冷蔵庫を開けて冷えたお茶を取り出す。

 相馬さんはテーブルの上で、いつもお土産をくるんでくる紫の辻が花染めの風呂敷をうやうやしく開き、箱に入った水ようかんセットを出した。

「かわいい水鉄砲もついてきましたのよ」

 このセットには子ども向けに日本の夏遊びおもちゃシリーズという小物がついてくるらしい。その竹細工の水鉄砲もテーブルに飾った。

 予想通り、相馬さんは十五分で水ようかんを食べ終えた。ぱくぱくと水ようかんを三つ連続で抹茶、こしあん、栗、とたいらげた。わたしが容器に残ったつぶあんのつぶと格闘している間の出来事だった。

「夏は水ようかん。ああ、わたくし大満足ですわ」

 相馬さんはそういうと無言で冷蔵庫のほうをじっと見やった。甘いものの欲求は満たされたからわたくしそろそろ冷えたお酒でも飲みたいですわという目線だ。無言劇のようにわかりやすいジェスチャーを、相馬さんはこうしていつもするのだ。

 わたしは、ビールと白ワイン、ジンの炭酸割り(クラッシュアイスはないけれど)のどれがいいかを聞く。

「今夜は白ワイン、一択でございましょう?」

 高らかに相馬さんはそう答えた。その解答に、わたしはアイスピックで怪我をした意味がなかったことを知る。

 わたしは心得たようにうなずいて立ち上がり、いそいそと冷蔵庫へ行き、ハーベストグリーンの扉を開けてりんごに一瞥をくれてから、ドアポケットにさしっぱなしだった飲みかけの安ワインに手をかける。

「ノンノン、それじゃあなくってよ」

 げっ、見えてたのか。振り返ると驚くほど背後にすぐ相馬さんの化粧顔があった。

「ほら、その奥に横たわってるのはなにかしら」

 なにってこれはいつかいいことがあった日のために開封しないでとってあるフランスものの白ワインですよ。わたしは声に出さずにフランスものを隠すように肘で抗議する。その肘の砦は相馬さんの冷たく粘着質の手であっさり取り除かれた。

「あっ、これはとっておきのフランスものの!」

 わたしの口から滑り出た言葉たちは、相馬さんにからめとられる。

「あらまあ、とっておきのフランスもの。今夜にぴったりですわね」

 え、今夜にぴったりって?

 思わず相馬さんの顔を見ると、相馬さんは決心したようにうなずいた。

「わたくし今夜はとても大事な時間を持ちたくってよ。ずっと思っていたんですけれど、カゲちゃんの生気のなさが気になっているのです。今夜はカゲちゃんと語り合いたいと思ってわたくしまいりましたの。それには飲みかけのコンビニの白ワインじゃいけません。フランスものの白ワインがぴったりですわ」

 わたしの胸はきゅっとなった。きっと大変な夜になるのだ。わたしはその重要な夜に、喜んでフランスものの白ワインを差し出そうと思った。(ああ、また尻尾を振っている)

 そうしてわたしたちは、ド派手なペーパーナフキンによって相馬化したダイニングテーブルの上で、フランスものの白ワインを飲み始めた。

「なにかアペリティフをいただきたいですわね」とせかされて、いつかの楽しみにとっておいたカニ缶を醤油でじゅっと焼き、ホワイトアスパラの缶を開けてレモンバターソースをかけ、それらをレタスと合わせて簡単なサラダをつくって出した。

「まあ、すてき。これに薄く切ってかりっと焼いたレーズンパンがあると最高ですわね」

 この人はエスパーだろうか。明日の朝、薄く切ってかりっと焼いて食べようと思ってさっき買ってきたレーズンパンがちょうどある。わたしはそれをしぶしぶと差し出した。

 相馬さんは女王のようにうなずいた。

 ワインとサラダとパン。ド派手なペーパーナフキン。ごきげんなピクニックのようだ。

 相馬さんは優雅にそれらを平らげていく。

 それを見ているのは、少しだけ幸福だなとわたしは思った。人が飲食しているのを見るのは、いいものだな。

 ほのぼのした気持ちになりかけていたのもつかの間だった。そこから相馬さんの怒涛のトークが始まったのだ。

「さて、それでは本題にまいりますわね」、と相馬さんはあらたまって話し始めた。

「カゲちゃんが初めてうちの会社に来たとき、わたくしとても驚きましたの。若くてかわいらしいのに、なんだか深い影みたいなぬめっとしたものを背負っていたから。その影が日を追うごとに濃くなっていって、もうあなたの影から目が離せませんでしたわ。それでわたくし心の中であなたのことをカゲちゃんと呼んでいました」

 ミカゲのカゲじゃないんかい!

「そして、アルバイトを辞めた日は、もう吸い込まれそうなほど深い影があなたの身体全体を覆っていましたわ。わたくし、これは大変と思いましたの。この人も、巻き込まれちゃうって」

「この人も? も、って? 誰か、も?」

「ええ。わたくし、あのような影を見るのは生涯三回目ですの」

 そこまで言うと相馬さんはフランスものの白ワインをぐびと飲んで(この人はビールを飲むときのように喉を鳴らしてワインを飲む)、わたしに体ごとまっすぐ向き直った。

 ところが黙ったままなにも言わない。嫌な予感だけがわたしの胸中にうずまく。

 なんとしてもしゃべらせようと思って、わたしは相馬さんをじっと見つめた。見つめたら穴があいて答えが出てくるんじゃないかと思った。

 相馬さんはわたしに見つめられると彫像のように人格を失って物体化した。

 だから遠慮なく相馬さんを見つめることができた。

 マスカラを塗った睫毛が長い。厚塗りのファンデーション、すこしはげた口紅。カールを巻いた黒くてこわい髪。紅茶のような赤茶色の瞳。

 ああ、この人は、本当は。何者なの。影が見えるって……なんなの?

 相馬さんはフルートでも吹くように唇をとがらせて、ふうううと長いため息をついた。

「自死されましたの」

 わたしはぐびっと飲もうとしていた白ワインをテーブルに置いた。

「じ、じし」

「ええ、自死されましたの。お一人目はわたくしの大学の講師の先生でしたわ。なにかに悩まれていたみたいで、校内でお見かけするたびに生気がなくなっていって、黒くて大きな影があの方を支配するようになっていきましたの。そのぬめぬめとした影がだんだん黒く、だんだん大きくなって、ついには酸っぱい匂いまでするようになりました。そしてその先生を大学でお見かけしなくなりまして、ある日、自死なさったと聞きました……。わたくし、とてもとてもショックでございましたの。視覚的に見えていたのに、なにもできませんでしたから。それからお二人目はわたくしの大切な友人ですのよ。彼は起業してはつらつと生きていらしたのに、金銭問題だとかでどんどん影が大きくなって、その方には何度もお知らせしたのですが、ずいぶんとお忙しそうにその金銭問題で駆けずり回って、そしてあっという間に自死なさって……。そして三人目は……」

 相馬さんは黒目がちな瞳をかっと見開いてわたしを見た。

「あなたですのよ、カゲちゃん。あなたの影がどんどん大きくなっています」

 心臓が、どっくんどっくんと早鐘を打った。

「なに、それ、わたし、悪魔にでもとり憑かれているの?」

 相馬さんはそれには答えず、時間をかけて白ワインを飲み、サラダを食べた。レーズンパンをさくっと音をさせながら白い前歯で噛んだ。

 わたしは待ちきれなくなって、「ねえ、相馬さんてば」と催促した。

 相馬さんはわたしではなくわたしの少し後ろを見るようにして言った。

「カゲちゃんは、倒産してお仕事辞めたんですわね」

「そうです」

「それで、当面のお金のためにアルバイトをして、そこでわたくしと出会いました」

「はい」

「あのアルバイト、みなさんけっこう長続きするんですの。わりに楽なお仕事みたいで。うさぎを被ることさえ厭じゃなければ、ですけれど」

「確かに……、お仕事は楽でした」

「それなのにカゲちゃんの影は、どんどん大きくなっていったんですの。そもそもうちにアルバイトに来た時にはすでにカゲちゃんには影がありましたわ。もともとなにか影ができる要因があったのかもしれませんわ。そして、いま、カゲちゃんの影は、わたくしを飲み込みそうなほど大きくなっていますわ。ごめんなさいね、少しだけ匂いもしますの。もう影はすでにカゲちゃんに自死を薦めていますわ。ほら、その左手。それが始まっているんですわ。わたくしわかりますの。だって、ほらあそこに立てかけてあるサーベルが、さっきからカゲちゃんをにらんでいますわ」

 わたしは血の止まった左手を見てぞっとした。あのサーベル……。わたしをなにに誘っていたのか。いや、わたしを誘っていたのは……。

 背後からべったりと黒いぬめりが覆いかぶさってくるような感じがした。このぬめぬめを、どうにかしなければならない。わたしはもうすぐ、このぬめぬめに、からめとられるのだ……。

「カゲちゃん!」

 相馬さんが大きな声を出したので、わたしははっとした。

 少し酔っているのかもしれない。

「カゲちゃん、なんでもいいから、いま頭に浮かんでいることをお話してみてくださらない? その子に、その暗い影に出口をつくりましょう」

「えっ、なに……。なんだろう……、ええと……」

 わたしは必死でわたしの中に思考の切れ端を探した。切れ端ともいえないようなものを見つけたので言葉にしてみた。

「ええと、冷蔵庫の中に、りんごがあるんです」

相馬さんは眉だけをあげて、唇の両脇をくいとあげた。

 わたしは話し始めた。

「りんご。なんとなく買ったんです。4月くらいだったかな。でも食べたいと思う日がぜんぜんなくて、そのうちもう味が落ちていっただろうというくらい数か月も経ってしまって、でも腐っているわけでもなくて、食べようか食べまいかどうでもいい選択肢の均衡が保たれたまま、ずっと冷蔵庫の中にあるんです。こういう、意味のない均衡。わたしの生活にはたくさんあるように思うんです。右かなあ、左かなあ、って悩むけどどっちも選ばないから右と左がどんどん離れて均衡が緊張していく感じ。ええと、イエスとノーの間にロープがあるとしたら、そのロープがぴんと張っている感じです。わたしはどっちも選ばないでそのぴんと張っているロープの上を恐る恐るつなわたりしてる。むしろ、ロープがぴんと張っているからつなわたりしやすい。だからどんなにくだらないことでも、イエスとノーがぴんと張っていること、強く張っていること、それだけが大事で、そういうロープがあるから歩いていけるような、そんな気分でわたし暮らしているんです。だから、困るんです、困るんですよ」

わたしが急に声を荒げたので相馬さんの両眉がぴくっと上がった。

「困るんですよ。急に会社が倒産とかしちゃうと、このバランスが崩れるんです。りんごはそこにきちんと普遍的にあってくれないと、客観的になれないというか」

 恐る恐る顔をあげて相馬さんの表情を確認してみた。

 眉をあげ、今度は顎も使って「それで?」と唇の両脇をくいとあげている。

「小さい頃からそうでした。空き地で遊ぶ自由なわたしと、夕食には帰らなければならない不自由なわたし。勉強しないで恋愛したいわたしと、短大に行きたいから勉強しなければならないわたし。ケーキを食べたいわたしと、太りたくないわたし。わたしはピンと張ったロープの上を毎日歩いているなあって思うんです。それはとても安全な連続で。りんごのイエスノーはそのなかでも小さい均衡なんですけど。そういうのがたくさんある平凡な人生、わたし大好きなんです。それは、決まった幸福なレールの上だから、できていた均衡だったのに、会社が倒産したくらいで、友達に着ぐるみ見られたぐらいで、そういう均衡が小さいリンゴの均衡までぜんぶがらがら壊れちゃうような、恐ろしい気持ちになって、なにを見ても苛々するようになって、前にテレビでアイドルの人が言ってたみたいに、わたしもそこらじゅうに機関銃をぶっぱなすみたいに、水鉄砲にチョコレートソースを入れてぶっぱなしてなにもかもぐっちゃぐちゃの取り返しのつかないことをしてみたいなんて思ったりして。変でしょ。もう、壊れる寸前ですよ。もうやだ。わけわかんない。なに言ってんのわたし。わたし、わたし、だから、それで、さっきの話は」

 喉がからからだ。ぬるくなった白ワインを飲んだ。

「さっきの話は?」

 相馬さんの顔が少し近づく。

「さっきの話は、どきっとしましたけど、聞かなかったことにしようと思ってます」

「へっ」

 相馬さんが気の抜けた声を出した。

「聞かなかったことにしようと思ってます。せっかくですけど」

「なぜゆえ?」

「わたし、なんとかこのぬめぬめに、均衡を与えてみますから。もしかしたら、倒産も、失恋も、お金がないのも、ぶさいくなのも、ぜんぶ均衡の問題なのかもしれないから」

「失恋? ぶさいく? もしかしてわたくしがひっぱったこの紐には、根深いものがいろいろとついているのかしら」

「そうです。その話はしたくないです。だからもうひっぱらないでください」

 グラスに残っている白ワインをさらにぐびと飲んだ。

 つられて相馬さんもグラスの白ワインをぐびと開けた。

 注いであげようと瓶をもちあげると、フランスもののとっておきの白ワインはもう空だった。

 ふふ、と笑いあった。

 冷蔵庫にあるチープな白ワインに突入だな、とわたしは思って立ち上がり、冷蔵庫へ行ってチープな白ワインに手を伸ばした。

「ノンノン」

 また変なフランス語で相馬さんがわたしを制した。

「冷凍庫に、タンカレーがあるの知っていますのよ」

 すたすたと相馬さんが冷蔵庫へ歩いてきて、わたしの足もとの冷凍庫の扉をがっと開けたかと思うと、冷え冷えのジンの瓶を取り出した。

「ねえ、氷はございませんの? できればクラッシュアイスがいいですけれど」

 よく通る声で相馬さんはわたしの左手を掴んだ。

「痛いっ!」

 そこはさっきアイスピックを刺した左手の甲だった。

 相馬さんはきょとんとした顔で大きな声を出したわたしを見る。

 きっとわたしはずいぶんと酔っていたのだろうと思う。それとも本人が思うよりあの話になにか傷ついたりでもしていたのか。

「痛いよ。相馬さん。怪我してるの知ってるでしょう。いきなり掴まないでよ。それから勝手に冷凍庫を開けないで。ここ、わたしの家なんだから。勝手にふるまわないで。好き勝手にいばりちらしてわたしを家来みたいに扱わないでよ。ねえ、なんなのよ。わたしの大切なテーブルに、ド派手なナフキンを広げないでよ。水ようかんなんてぜんぜん食べなくなかったのに、買ってこないでよ。どうせ食べるならわたしつぶあんは苦手なのよ。ほんとうは抹茶が食べたかったよ。なにが食べたいかって最初に聞きなさいよ。だいたいあなたはいつもわたしの家に三越から電話をしてきて、こうやってわたしの夜を浸食して台無しにするんだから。知り合ったばかりだというのに、そうやって、土足で、わたしの、大事な、時間に、どんどん、どんどん……」

 それ以上続かなかった。怒りを声にして出したいのに、このエネルギーに行き場を与えて外に出したいのに、口がうまく言葉を出せない。頭の中でキーンという金属音がする。このままだとわたしは破裂してしまうかもしれない。

 その暴発の寸前に、視界が白く覆われた。

 ふわり、と繻子のような優しくひんやりした生地が、わたしを頭ごと抱きしめている。

 頭ごと抱きしめられると、耳や目を生地でふさがれるせいか、一瞬で世界が布だけになったようになる。相馬さんのゆったりした白いブラウスは、きっと化繊ではなくとてもいい生地なのだろう。頬がかゆくないし、すべらかでしとっと吸いつくように柔らかい。

「ねえ、カゲちゃん」

 相馬さんの声は、わたしを抱きしめている腕の奥から聞こえた。相馬さんの声が相馬さんの骨を伝って聞こえてきているみたいだ。いや、骨が喋っているのかもしれない。

「水鉄砲で、チョコレートソース。ぶっぱなしてもよろしくてよ」

「えっ」

 相馬さんの腕の骨がわたしに話しかけてくる。

「ねえ、そうすれば、ぬめぬめたちが出ていくわよ」

 わたしの頭の中で、西部劇に出てくるような金具をつけた靴の音のような、カシャッカシャッという音がする。血がのぼってきているのだ。破裂しそうだ。

「さあ」

 相馬さんはふっと笑った。

ふっというFの音が相馬さんの口元で微細な風を起こした。

ふ、という日本語の発音ではなく、下唇に乗せた前歯の間から風を出すようなFの音。

「ふふふふふふふ」

漂いはじめたのは、風というよりは魔法の粉だろうか。

「FFFFFFF」、相馬さんはさらに唇の先だけでFの音を連発して魔法をかける。

 わたしは、その音により催眠術にかかったように力が抜けていく。

そしていつか遠い昔に読んだお話で見たような、魔法使いの術にかかった絵本の中の少女となっていた。

微細な振動。かすかな音。FFFFFFF……。

わたしの中の、誰かが言う。

「いいの?」

 相馬さんの、FFF…がとまった。同時にこの部屋の空気の振動がとまる。

 こくり、と相馬さんがうなずいた。そしていつも通りの微笑みに戻って言う。

「はい、おつきあいいたしますわ。水鉄砲は、この水ようかんの夏遊びおもちゃの水鉄砲がうってつけじゃございませんこと?」

偶然に驚いた。三越の前の電話から、もう魔法は始まっていたのかもしれない。

「けど、けど、チョコレートソースなんかないもん」

わたしは少しうきうきして冷蔵庫を開けた。

缶入りのチョコレートドリンクならあった。春の大失恋の相手と行ったチョコレートファクトリーで買ったセットの余りだ。

 わたしは自分の心を見下ろしてみた。ぬめぬめの最底辺の素地に、あの大失 恋が根を張っているようだった。この根っこごと、処置しなければならない。

 実にちょうどよい。このドリンクを、あの大失恋ごとぶっぱなそう。ぬめぬめに、出口を与えよう。取り返しのつかないことをしよう。

 時は満ちた。

 すっかり夜も更けていた。

 わたしはチョコレートドリンクの缶をぷしゅっと開けて、水鉄砲の水を入れる部分にトクトクトクと注いだ。

 装填は完了だ。

 さあ、どこへ、砲撃しようか。

 カーテンの向こうからむっとした夜の闇が室内へ流れ込んできた。

 ピンクのカーテンの鳩たちが、ふわりとはためいた生地の中を羽ばたく。

 振り向くと相馬さんは大きくうなずいた。

 わたしはわたしの中の全ぬめぬめたちに、いま扉を明け渡すのだ。

「くらえ!」

 幸福を呼ぶ鳩たちが、みるみるうちにチョコレート色に染まっていった。
 

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