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仮面と懺悔【前編】

 爽やかな春の風が心地良く頬を撫でる。牧師になってからというもの、教会に着くと毎朝決まってポストの中を覗く。近所の不動産の広告が乱雑に押し込まれている。夢のマイホーム、と太い赤字で大々的に書かれていた。
そして何を思ってここに入れたのか、学習塾の生徒を募るチラシ。そんな自分には無関係な数枚の紙の間に、手紙とおぼしき差し出し人不明の封筒が挟まっていた。
 何気なく手に取ると、それは血の様に真っ赤な封蝋でしっかり綴じられていた。華やかな薔薇を模した封蝋が、純白の封筒を厳かに引き締めている。
中には数枚の便箋に、何やらぎっしりと手書きの文字が羅列されている。女性の文字だろうか、線が細く柔らかな筆跡だ。便箋からは、ほのかにコロンの香りがする。
 ポストの前に棒立ちになって読むのもなんだからと、封筒を手に聖堂の中に入った。年季の入った木製の長椅子に腰掛けると、首から下げていた老眼鏡を掛けて、丁寧に綴られた文字に視線を落とした。


突然お手紙を差し上げた失礼をお許しください。
私はどうしても生きているうちに、神に懺悔せねばならない罪を負っています。
この世で最も醜悪な、そして穢れた行為に惑溺し、その身その人生が粉々に砕けてしまうまで、その行為に耽っておりました。

それは始め、私の不安を拭い去る漸く出会えた唯一の打開策でもありました。
なんともお恥ずかしい話で、私は幼少の頃から人の目を見ることが、大層怖く思ってしまう性分でありました。大きくなってもそれは変わらず、高等学校を卒業後、仕事をする様になってからも、人の目を見れないまま生活を続けていました。その所為か、職場の人々とは不和になり、辞めざるを得ないことが多々ありました。めっきり自信を失い、果てには一人暮らしをしていたアパートを引き払い、実家へと出戻ったのです。

ある日、そんな不甲斐ない娘を心配してか、母は私にある殿方との見合いを勧めました。お相手は随分と家柄も良く、背の高い、端正な顔立ちをした素敵なお方でした。雲一つない晴れた日に、初めて彼と会いました。彼は引っ込み思案で、勿論目を合わせられない私を、小鳥の様で可愛いと気に入ってくれて、私達はすぐに結婚の日取りを決めようと話は進みました。
二人が暮らす新居は、特別豪邸という訳ではありませんでしたが、薄桃色の壁が可愛らしく陽当たりの良い、ごく普通の家です。早々に嫁入り道具を運び入れ、挙式を挙げる前に結婚生活は始りました。難なく順調に女の幸せを手にした私は、謂わば有頂天になっておりました。何もかも満ち足りた生活の中で、自分が元来持っていた大きな問題を、うっかり見落としていたのです。

こんな事を、会ったこともない牧師様に言うのは憚られるのですが、数ヶ月の結婚生活でまだ彼と閨を共にしたことがなかったのです。それもこれも、全ては私が抱える問題が大きく関与していました。彼の眼差しが怖いのです。ましてや、その視線の前に裸体を曝け出すなど、私からすると想像も絶することなのです。
幾度とあれやこれやと理由をつけて彼との行為を拒みました。しかしそれにも限度があり、日増しに彼の顔は曇っていきます。まあ勿論でしょう。新婚の男女が愛し合うことはごく自然なことな上に、これから二人の新しい家族を作るには避けては通れぬ物だと頭では理解しているつもりです。それでも無理なのです。どう考えても私には出来ない。

その頃、二人きりの食卓には冷たい隙間風が吹いていました。会話は最低限、彼は不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま、只々白飯をかき込むばかりなのです。
まるで老いた熟年夫婦。己が原因だとは重々分かっていながらも、彼と間に立ちはだかる分厚く、堅い取り払えぬ壁に耐えかねておりました。
ある日の晩のことです。どうにも打開策の見つからない問題に、とうとう私は嫌気がして食事の支度も放って、あてもなく家を飛び出しました。冬で陽が短くまだ五時だというのに空は暗く、雪がしんしんと肩に積もる天候の中、傘も差さずに街の外れをひたすらに歩いていました。見ず知らずの家族が住んでいるであろう家々からは、暖かな照明の光が漏れ、愉しそうな談笑の声が私の耳にも届いた時には、どうしようもなく自分が惨めに思えて涙を堪えるのに必死でした。

どのくらい歩いたのか自分でも分からないまま、気づけば見慣れぬ路地裏に辿り着いたのです。怪しげな占い師が道端に座り込んでいたり、閉めているのかも分からない薄暗い薬屋があったり、なんだか不気味に見えるその路地裏に、私はどんどん引き込まれて行きました。挙動不審に周囲を見回しながら暫く歩いていると、ネオンの電飾が五月蝿い程に輝く或る店に目を奪われました。中の様子を窺えそうな窓の類いは一切なく、ただ中央に重厚な扉があるのみです。
恐怖心が無かったと言えば嘘になりますが、どうにも抑えきれない好奇心から、気づけば私はドアノブに手を掛けていました。重厚な見た目とは裏腹に扉は軽く、緊張感から無駄に力が入っていた私は、転ぶ様に店内に入ってしまいました。
そこには御伽噺の様な世界が広がっていました。西洋風な内装に、所狭しと並べられた様々な仮面。百は優に超えるであろう仮面たちは、個性的で華やかでどれも負けじと自己主張をしています。いつかに聞いた、遠い異国の仮面舞踏会を思わせる細かいレースがあしらわれた上品な物は、特に私の心を躍らせました。
すると店の奥から、漆黒の仮面で目元を隠した男性が現われました。丁寧に撫でつけたオールバックの髪に、皺ひとつ無い白いシャツ。恥ずかしながら、私は一目でその男性に心奪われてしまったのです。

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