何も言わない

以前住んでいたマンションでのことだ。管理組合の理事になった。どこのマンションでも、たいていは抽選で順に回ってくるやつだ。マンション住まいの方ならば、一度や二度は経験したことがあるだろう。
理事長は年配の方だった。ぼくは書記を命じられた。なので、理事会が開かれるたびに書記として議事録をまとめ、理事長に持っていき、
「これでいいでしょうか?」
と文章を見てもらうのだ。

ことわっておくが、ぼくが作家・放送作家であることを、理事長は知らない。理事会の他の方々も知らない。ぼくは、なんとなく自由業ということで通っていた。おそらくみんな内心では、
(こいつ、会社員ではなさそうだし、商売をやっている風でもない。昼間いることもあるし、奥さんや小さな子供もいて、とくに派手でもなく普通の生活してるし……いった何やってるんだ? あやしい奴だな)
と思っていただろう。「自由業あるある」だ。
ぼくの本がベストセラーになって名前と顔が売れていれば違うだろうが、(残念ながら)そうではない。放送作家は元々裏方だし、それに仕事の説明をしたって、どうせわかってもらえないだろう。だからぼくは、このふわふわした周囲の状況を楽しんでいた…うふふ(おそらくこれも「自由業あるある」だ)。

ある理事会でのことだ。前回から引き継いだ小さな議題(自転車置き場の件だったか、ケーブルテレビの件だったか…もうすっかり忘れた)については特段なにも話さなかった。進展なし。なので、後日まとめた議事録(案)には書かなかった。
すると、ぼくの議事録(案)を見た理事長は、
「あの件(自転車置き場だか、ケーブルテレビだか…)についてが、書かれていないですよ」
と言った。
「でも話さなかったですよね。なんと書きますか?」
「***については、今後の経緯を見守りながら引き続き検討を行っていくことになった、とでもしておきなさい」
「わかりました。『何も言わない』ってことですね!」
と、ついうっかり答えてしまった。あの時の理事長の「嫌そう~な表情」といったらなかった。
ぼくも若かったので、ポロッと本当のことを言ってしまったのだ。だって、作家だからね。しかし「大人の社会」では、あれは言っちゃいけないことだったのだ。

昨今、もっともらしい言葉をくどくど連ねて、その実「何も言わない」答弁を続ける政治家や官僚たちを見ていると、ぼくはいつもあの理事長の「嫌そう~な表情」を思い出すのだ。

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