ノスタルジーのイメトレ

以前にも少し書いたが、実家を解体した。
遠隔地なので業者さんにまかせて、経過だけ写真で報告してもらった。ネットの時代は便利だ。スマホで撮った写真がバンバン、メールで送られてくる。

タンスだとか食器棚だとかテーブルだとか…家財道具がすべてなくなり、畳を剥がしてガランとした室内の写真。もちろんそんな光景は、暮らしていた時に見たことがない。
「ん? これはどこの部屋?……ああ、あそこか」
と一瞬遅れて気がつく。
物心ついてからずっとタンスがあった場所など、
「あそこの裏の壁はこうなってたのかあ!」
と初めて知る。なかなか面白い。

地方の古い家で、昔は小さな家族旅館をしていたと聞くから、普通の家よりは部屋数が多い。どの部屋も思い出深いから、
「いろんな角度から撮った写真を、いっぱい送ってきてもいいですよ」
とお願いしていたが、送られてきたのは必要最低限の証拠写真みたいなものだけ。
(ずいぶんビジネスライクだなあ)
とは思ったものの、
(そうでなきゃ、バンバン片付けできないよなあ)
と納得。なんの思い入れもない他人の家だからこそ、テキパキと作業ができるのだ。
そこらへん、たぶん介護とか遺産相続とか…そういったものと同じだ。血縁家族とは距離をおいて、あえて他人(社会)が関与した方がいいことがある。

内部を片付ける業者さんと建物の躯体を解体する業者さんが別々だということも、今回初めて知った。たいていの人は、実家の解体なんてせいぜい生涯に一度だろうから、そうなる。
内部を片付けたあと、解体業者さんが、これまたアッサリと家を壊した。こっちとしては途中過程の写真をいっぱい見てノスタルジーに浸りたかったのだが、実にビジネスライクに、
「これから工事始めます」
「いま途中で、こんな感じです」
「全部壊しました」
…という必要最小限の各段階の写真だけ報告してきた。
(そりゃ、そうだよな。だって、思い入れないもの)
とやっぱり思った。当たり前なのだ。

ここにこんなことを書いておいてなんだが、私はふだんから、ノスタルジーという感情はとても魅力的だけど、それゆえに危険でもあると思っている。
ぬくぬくと温かい毛布にくるまっているようなノスタルジーに絡めとられると、前を向けなくなるのだ。だって、前を向いて進むのは、たいていの場合少しつらい(おおいにつらいこともある)。それでもやはり、人は前を向いて進んでいくべきだろう。
とはいえ、前を向くばかりじゃ疲れる。人はそんなに強くもないのだ。ひとときの休憩としてノスタルジーに浸る時があってもいい。小説や映画や漫画や音楽…などにノスタルジーを扱ったいい作品があるのは、そういうことだ。作品世界の中でひととき休憩することができる。休憩したら、またゆっくりと前を向けばいいのだから。

ここから先は

1,242字

¥ 150

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

お読みいただき、ありがとうございます。本にまとまらないアレコレを書いています。サポートしていただければ励みになるし、たぶん調子に乗って色々書くと思います! よろしくお願いします。