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超読書術「鬼滅の刃」を読む(絵、キャラ、ストーリー、テーマ)

目次
1.本来の鬼滅のポテンシャルは1200万部。
2.作品を化けさせた絵の力
3.キャラについて
4.ストーリーについて
5.テーマ(人間賛歌)について
6.鬼滅の刃が残した大いなる遺産



鬼滅の刃をようやく読み終えた。

ジャンプ本誌では連載当初「こりゃすぐ終わるわ」とスルー枠に入れてまともに読んでいなかったのでwebで一気に読み切った。
単行本の迫力には負けるが、たぶん人生で1度読めば十分なので気にせず最後まで読んだ。

連載中はジャンプをパラパラめくってあの絵柄が目に入った時「え!?ハンターハンター載ってる!?」と思ったら鬼滅だったというフェイントにひっかかってたまに目にした程度。
いつも「まだやってんのかー」と思う程度だったが、5ちゃんでは早くから「光るものがある」と一部の漫画読みが見抜き、世間では無名な何年も前から鬼滅はねらーたちがふざけながらもピカピカ言って評価していた。



それでも「思ったよりは読める」というレベルでまさか1億部というスラムダンク並みのヒットになるとは
誰も予想できなかったが。


これは俺含め漫画読みがこのポテンシャルを見抜けなかったのでなく、鬼滅自体の戦闘力はよくて1200万部くらい。

ニセコイ、ブラックキャットくらいか。
黒子のバスケが3000万部なので、巻数的にもその半分くらいが本来の実力。

18年前のジャンプで3巻で打ち切られた「ソワカ」という鬼狩りの漫画があり、1話目を見て俺は大いに期待して5回くらい読み返した。
とある村を鬼が襲ってきたことから物語が始まり、主人公は殺した鬼の能力を自分のものに出来るロックマンみたいな力を持っていて、これから戦って勝つほどにどんどん強くなっていくんだな、というワクワク感と丁寧な絵で大人気作になると俺は読んでいた。


東先生、今何してるんだろう



ところが絵全体があまり明るくなく、必殺技らしい技というものもないのでバトルにポップさがなく、人気が振るわずあっという間に終わってしまった。

雰囲気作りとポテンシャルとしては鬼滅よりソワカの方が上だと思うが、少年漫画としてはやはり派手な技をバンバン出す作品の方がウケるんだろう。
そのバトルの良さもアニメ化ガチャでSS引いた結果と言われているが、それでも行って2500万部あたりだろう。

あの主題歌と演出、作画でブーストかかっただけでなく、おそ松ロスの腐女子の金の受け皿と化したこと、
コロコロを卒業したキッズの受け入れに成功したことが成功の要因だろうか。


<技について>

ドラゴンボール、幽遊白書の頃は技と言っても基本は殴り合いの延長線上にあり、エネルギー波をぶっ放そうが殴ろうがダメージの大小以外の差はなかった。

ジョジョやハンターの「能力バトル+心理戦」の普及以降、複雑化が進んだ少年誌バトルマンガの流れの中であえて「〇〇の呼吸!」と言えば原理や理屈はなくとも技が発動し敵を派手にぶった斬るシンプルな能力にしたことでかつてのドラゴンボール的な「子供でもわかりやすいバトルマンガ」に回帰したことに加え、るろうに剣心のような「真似しやすい」親しみやすさが漫画読みビギナーのキッズたちでもストレスなく受け入れられたんだろう。

幽白の霊丸やダイの大冒険のアバンストラッシュみたいな真似しやすい技はシンプルゆえに個性を出そうとするとデザイン(動作)が難しい。
子供が違和感なく受け入れパッとマネできる技であるためには、飛行機が飛ぶことを極限まで突き詰めると鳥の形に近くなるような無駄がなく洗練された、かつ自然な造形であることが望ましい。


かめはめ波なんてどういう理屈の技なのか説明らしい説明もなかったが、体内のエネルギーを練り上げながら腕を伝わって手のひらに集約し、それを前方に撃ち出す技であることが読んでるだけで自然と伝わってくるので「もしかしたら自分も出来るんじゃないのか?」と全国の小学生が夢見て練習させるに至った。


シンプルさと個性という相反するデザイン性を持つ技を考案するのはかなりのセンスが必要で、単純すぎると魅力がなく、複雑すぎると読者が付いてこない。ハンターの念能力もジョジョのスタンドも複雑にしすぎると読者が離れていく。

打ち切り作家の岩代先生の唯一の中ヒット作である「サイレン」で俺が好きなポイントは主人公の能力。

ガンツの設定丸パクリに少年誌的な能力バトルものを取り入れた作家としてはみっともない作品であるが、主人公の技「暴王の月」の設定はうならされた。

普通、主人公は汎用性の高い近接武器(剣や刀など)や技(斬撃に何か属性が付与される等)で、斧やカマみたいなトリッキーな攻撃方法は敵勢力や味方のワンポイント的な戦力に持たせる。

ぶん殴った相手にジッパーを付けて戦う能力で最後までバトルを描き切るみたいなのは荒木先生並みの天才にしか出来ず、そんな荒木先生でも主役は結構使い勝手に良いシンプルな能力にさせる。
ブリーチでも一護の卍解は超スピードになるだけというものだったし、長期連載を視野に入れるとどんな場面、どんな敵とでも戦える能力に落ち着く。

サイレンの能力「PSI(サイ)」は人間の持つサイという脳のエネルギーをどうアウトプットするか個々人がプログラムしテレパシーとか発火とかいうカタチで放出する。

そんな中で主人公がプログラムした「暴王の月」は真っ黒いブラックホールみたいなエネルギーのかたまりを撃つのだが、霊丸みたいな使い勝手の良いシンプルさはなく「中長距離攻撃」で「ホーミングと変形」によって敵に当てるというかなり扱いづらい技。
先陣切って敵の懐に入り込み剣を振り回して臨機応変に攻防を繰り広げる、という従来の主人公像とは真逆の、遠距離で攻撃を仕掛けるスタイルな上にただ食らわせればダメージを与えると言うわけでもない、なんかエネルギーを吸収して膨張するみたいな設定も入っていて、何が何だかよくわからん。


これが暴王の月だ!渋い!渋すぎる!!

よくわからないが、天下のジャンプで中長距離砲を主人公の持ち技にするか!というセンスに脱帽し、そこだけは好きだったが、キャラデザやストーリー、演出などその他もろもろ必要な漫画と言うコンテンツにおいてはあまり魅力のある作品ではなかった。なのでほどほどの人気でアニメ化もせず終わった。

ハンターや呪術廻戦が良い例だが、男がバトルものをやろうとするとどうしても理屈っぽくなる。

これはこういう原理で発動する能力でーとフィクションながらも威力やその技が出現することに説得力を出そうとする。
女作家でもヒット作の鋼の錬金術師なんかはむしろ理屈を武器に戦うみたいなところまで前面に出していたし、ギャグ格闘漫画である「らんま」ですら『爆砕点穴』は土木作業用に生まれた万物のツボをつくことで岩を爆砕する、とか『飛龍昇天波』は戦闘時に熱くなっている相手の熱気を利用し螺旋状のステップに引き込むことでその熱気を活用しアッパーを打ち込むと上昇気流が発生して敵を吹き飛ばすとか、『獅子咆哮弾』は嫌なことがあって気分が重い時のその重い気をかめはめ波みたいに放出することで威力のあるエネルギー波を撃てる、とかそれなりに理屈をつけられていた。
多分、描いてる方も読んでる方も何かしらの理屈があるほうがしっくり来るんだろう。

小学生時代にスルーしてしまった聖闘士星矢を大人になってから読もうとすると、かなりきつい。
何の理屈も無く、技名を叫んだら相手が吹っ飛んで顔面から地面に叩きつけられるという戦いの繰り返しは、当時だから許されたあの画力と勢いで幼少期に読まなくては消化できない。

島本和彦先生も聖闘士星矢をひとことで表すと「最後に立ち上がった方が勝つマンガ」と言ってるように、あれはどれだけすごい技を喰らおうとも「俺は…こんなところで負けるわけにはいかねえ!」と言いながら立ち上がった方が最後の一撃を食らわして勝つと言うバトル。
勝ち方にも負け方にも説得力が要る現代のレベルでは通用しない。車田漫画の様式美、としては楽しめるが。


鬼滅は聖闘士星矢ほど根性漫画ではないが、かといって能力バトルものにしてはあまり理屈を前面に出さないので、ちょうどキッズの入門マンガとして機能したんだろう。
ついでに漫画から離れていた親も読めるし、頭を使わなくても楽しめるので広く浅い層が読める。

逆に、濃い漫画ばかり読んできてしまったその先にいる漫画読みたちにとっては物足りない。しかしアンパンマンを楽しんでる子供に「ブチャラティとプロシュート兄貴の戦いのが熱いぞ!」と熱弁しても伝わらないように、万人ウケという意味では呼吸という言ったもん勝ちの発動条件のバトルの方がわかりやすく、浸透する。


<絵について>
大学時代、押井守監督のスカイクロラのメインスタッフのトークイベントを見に行った。

作画監督の西尾氏はナルトの作者が億万長者になった今も憧れる描き手で、古くは忍空の時代から活躍し今も前線にいる。
ナルトのアニメもこの人がキャラデザをしている。


Q&Aコーナーで、宮崎駿と押井守のならどちらと一緒に働きたいか?という質問が飛んだ。

てっきり超一流クリエイターの宮崎駿が1番人気かと思ったが、登壇者のアニメーターみんなして「押井守」と言う。

理由は、宮崎駿は絵が上手すぎて彼の描いた絵コンテが正解となり、自分の表現が超えられる余地がない。

押井守は絵が下手なので自分たちのクリエイティビティを発揮する余地が沢山あり、作画にやりがいがあるからだという。

確かに、魔女の宅急便のDVDおまけ映像で宮崎駿の描いた絵コンテに1カットずつ声と音を当てて最初から最後まで流すという映像を観たとき思った。
宮崎駿は絵コンテの時点で抜群に上手く、動かないだけでそれはもう音を入れたら最後まで観られるアニメそのものだった。

動きもしないのにコンテに音を入れただけで最後まで観れる力が宮崎駿の絵にはある。

押井守は絵が下手なので、歩く人を正面から描くとガニ股になる。
アニメーターはてっきりそういう指示なのかと思い、だからうる星やつらのアニメではあたるがガニ股になってるらしい。



創意工夫の余地がある方が才能あるアニメーターも表現のしがいがあるんだろう。
だから鬼滅のバトルは原作が描き込みすぎず、説明しすぎすという密度だったので、アニメでやりたい放題できた。

逆にワンピースなんかは、原作を読んでると「ゴムゴムのピストル!」といってパンチを繰り出すとそれが相手の内臓にめり込むように伸びる殺人パンチとなると思っていた。

のでアニメ1話目で「ゴムゴムの~~」と言いながらまずは目一杯に後方へと腕を伸ばし、その伸びた腕を前方に繰り出して「ピストル!」と攻撃したのを見て「え!?こんなんちゃう!」とみんな納得していなかった。
元の絵が完成しているとそれに動きの解釈を付けた時にイメージと違うと反発が生まれてしまう。なので原作が下手な方がイメージを崩さずに済むんだろう。
作者のちょうど良い画力がゆえにアニメで化けた奇跡だ。

けいおんも原作はどこにでもある萌え4コマの絵だったが京アニが息吹を吹き込むと途端に魅力的な絵になるし、動きの少ない4コマだからこそ、その行間をどうつなぐか、埋めるか発想力が求められる。
ただギターを弾くシーンでも、どこからどこまでを絵にするか、どこを切り取るかでセンスが出る。

そういう意味では鬼滅の原作は作者がやりたいこと(描きたいアクション)が画力にまだ追い付かない程度の実力でありアニメーターがやりたい放題できる。 しかも「炎」や「水」や「雷」というアニメ映えするエフェクト満載なので、見せ場に力を入れたら当たる、という狙いが見事にはまった。

世間的には誰も読んでない、ピカピカ言ってる5ちゃんねらーくらいしか買ってない鬼滅という作品があれだけ化けたのはやはりアニメの影響が大きい。

ファミコン、スーファミ時代のドラクエはドットのキャラはたくましい戦士にも可憐な女魔法使いにもまるで見えないが鳥山明の描くパッケージと説明書のキャラ絵だけ提示しておけばやってる方は「このカクカクした物体はとても綺麗なおねーちゃんだ」と勝手に脳内変換してプレイしていた。

アニメから鬼滅に入った連中は作者のあの下手な絵を見て「これはこれで良い」と言ってるらしい。
実はよく見るとアクションシーン以外はそんなに下手ではないのと、女作者特有の小物や服装を丁寧に描くというこだわりが
感じられてジャンプで読むよりは汚い絵に見えない。さらに下手な絵もアニメの感動的な演出やアクションに変換してくれてるんだろう。


<ストーリーについて>
作者が急に連載を終わらそうとしたのか、ラストバトルが急展開すぎる。

敵の幹部はじっくり関係性や強さを描いておいて、まあこいつらと柱がぶつかるんだろうなーと期待していた通りであったが、肝心の柱側が「能力初お披露目が最終決戦」というなんとも盛り上がりに欠ける構成。

あんなに強い〇〇柱でも負けるだと!?とか、やべー!〇〇柱と上弦の〇は相性最悪じゃん!どうすんのこれ!!みたいなドキドキが一切ない。
なんせこっち側ですら味方がどんな奴なのかわかんねーんだから、知らん奴同士で戦われてもあんまり盛り上がらない。

というか、強キャラの死が「敵の強さ」の説得力にならないといけないのに、どちらかと言うと「柱、弱くね・・?」という読後感。

なので死人続出のラストバトルも無惨の強さは引き出せたが柱の魅力は半減させるだけに終わった。

味方の強キャラが死にまくるが格は落とさず、敵の強さもしっかり描いた例の最高峰は封神演義の仙界大戦編で崑崙十二仙のほとんどが聞仲に殺されたところだと思う。

あれはまず崑崙十二仙が師匠クラスですよという関係を主人公チームとの関係性で描いておいて、大戦勃発時は敵勢力で同格の十天君を撃破してその強さをしっかり見せた上で、束でかかっても格上の聞仲に殺されまくるという絶望感への演出で「十二仙、弱っ!」とおもわせるタイミングがなく、魅力を保っていた。

鬼滅はここで言うと、師匠クラスですよ、とだけ示したのみで、どれくらい強いのか提示しないままに戦って格上と戦って死なれたので、強さの印象が残らない。
無惨が下弦の月をパワハラ会議で一掃したのでスピーディーな展開となった、と評してる奴がいるが
何人かは下弦の月を柱に撃破させておかないと「格」が保てない。瞬殺でも良いから柱の能力のお披露目もかねて下弦と戦わせておけばよかった。そして、上弦に負けても「下弦と上弦の間の開きは半端じゃねー」とこれから倒していかなくてはいけない敵の強さの演出に使えば良い。
スピード感と言うが、それはヒットしたから問題なかったからであって、やはりあの展開は構造上の欠陥だ。何にでも飛びついて飽きるまでしゃぶりつくす腐女子だから気にしないだけで、バトルマンガ愛好家としては何度も読み返したくなる名作になれなかった要因のひとつと思う。

柱が死にまくるアニメ2期に向けてその欠点を補うために劇場版は何作ってもヒットが約束されていたので無限列車編でもビジネス的には間違ってない(慌てて7巻までは読む人が続出したし)んだろうが、作品の価値をより高めるならばオリジナルストーリーで1本作った方が良かった。

敵は12鬼月を降ろされた昔は強かったひと癖ある鬼たちとか何でも良いが、2期で活躍する柱が大集結して鬼をバッタバッタと斬りまくる「うおー柱つえー」という話を見せて、アニメ2期につなげるべきだ。
「煉獄さんですら負けるだと!?」「音柱がこんなに苦戦するなんて、上弦は格が違う!!」と言う原作を補完する前フリとしての話でも挟んだ方が良かったんじゃないかと思う。
最終巻まで売れまくってるのは各巻が面白いからではなく、23巻という一気買いしやすい巻数である上に、ジャンプ本誌を読んでいない後乗り層が買ってるからであり、内容が評価されてのことではない。買って読むまでは何が描いてあるかわからない状態なので、買ってるだけだ。

それを後付けで「ちんたらバトル数が増えがちな団体戦にならずに済んだのが良い」とか言ってる奴は4流だ。善逸たちがラストバトルに突入して前線で戦える説得力がない。もうちょっと強くなるのかと思ったら初期と大して変わってないし、総合力では柱に及ばないが、この技一点だけなら柱をも凌ぐ破壊力を持つ、くらいの一点突破で撃破するくらいの土台は欲しかった。

煉獄さんを殺った上弦の月以外はとくに因縁もないままラストバトルに突入したので、慌ててマッチング相手を
「実は兄弟子だった」とか「親を殺した鬼だった」とか言い始めて、そこも「うーん」という感じ。

善逸がどんなにつらくても鬼殺隊をやめないのは倒したい相手がいるからだ、とか、伊之助が戦う理由は親の仇を討つためだ、とか匂わせもせず「俺はお前を絶対に倒す!!」的なことをいきなりやられても感情移入ができない。単行本のおまけコーナーを見るに結構な設定を考えていたようだが、作者は連載終了後に婚活を始めたというので女としてのタイムリミットを考えて潔くちゃっちゃと終わらせることを選んだんだろう。

<キャラについて>
女作者特有の理屈っぽくなさ、はキャラメイクにも通じており、大正時代に金髪やピンク髪を出すにあたり
「雷に打たれて金髪になった」「桜餅を食べすぎて桜色になった」で済ませるのと、細かいことを気にせず
「そういうもんだから」で進めていけるから多彩なキャラを出せたのが強みだろう。

らんまでも「水をかぶると女になる」という設定は「呪泉郷という色んな温泉の湧く里の中の1つ、若い女が溺れた泉に落ちたせいでそういう体質になった」だけで説明は終わらせ、理屈も何もない。
男なら、その成分とか化学反応とかそれっぽいロジックで説明しようとしてしまうが、高橋留美子はそこは深入りせず「パンダが溺れた泉に落ちたからお父さんはパンダになるし、猫が溺れた泉に落ちたからシャンプーは猫になるんです!」で強引に話を進めて行く。なので色んな体質を持つキャラがドタバタ劇を繰り広げたり、人間の時は女として見られるシャンプーが、猫になってしまうと猫嫌いのらんまは逃げ回るハメになる、というようなギャップで幅のある展開を作ることが出来る。

俺は鬼滅のキャラに愛着は無いが、あの軽い設定であれだけ色んなのが出てきたら万人が読んで1人は好きなキャラがいるだろう。
プリキュアが「2人はプリキュア」からシリーズ化により5人に増えたのは、女の子というのは「こいつら嫌い!」と思うとどんなに話が良かろうと観てくれないから、5パターン主役を出しとけばどれかには引っかかるだろう、というバンダイの戦略らしい。男の子はバトルが格好良いとか、ストーリーが良いとか他の要素で補えるが、女というのは一人も好きになれないと観てくれないし、好きなキャラがいたら観てくれるもんらしい。
男より女が熱中するのもキャラ祭りによる「推しキャラ製造マシーン」と化しているのも大きいと思う。

鋼の錬金術師もそうだが、女作家らしさ、という点で「女が強い」というのは良かった。
ねずこは男作家なら守るべき存在、若干足手まといな存在にしがちなところを
普通に戦力にしてるのが「おお」となって良かった。
柱にバリエーションとして女もいるというのは考えられるが、妹が箱の中から蹴り上げて鬼の首を
ふっとばすみたいな描き方は男の作家からは出てこない発想だと思う。
で、ねずこが何でかわからんけど日光を克服した、という急展開も女作者だから理由なんかどうでも良いんだろう。
あくまで全面戦争の火ぶたを切るきっかけにすぎないから。

<テーマについて>
作者がジョジョが好きと公言してるだけあり、吸血鬼や呼吸と言う上辺の部分でなく「人間賛歌」を描き切ったのは良いと思う。「長男だから耐えられた!」とかは面白くも踏ん張る説得力があるし、時代背景も伝わる。
敵も味方も戦闘員も非戦闘員もやれるだけの力を出し切って死ぬ、というジョジョっぽいところに影響を感じる。

ラストバトルで炭次郎が無惨に取り込まれたのもジョジョ1部へのオマージュだろうし、そこでジョナサンと違って吸血鬼に打ち勝つというところも作者なりの荒木イズムなんだろう。
少年漫画的には主人公の熱い剣劇で倒して欲しかったが、毒で制すというのも「人類」VS「人類の敵」の結末として作者なりの美学があったのかもしれない。
ネテロの自爆も今だから飲み込めるが、連載当時は「念能力で倒してくれよ!」と消化不良だった。

無惨が鬼殺隊のことを「異常者の集まり」と呼ぶのが面白くもあり鬼殺隊という人間の狂気を描くことにもつながるので、彼らが政府公認の組織でなかったのが最後に活きた。
最初は警察組織とか、政府の公職に何でしないの??と思ってたが、世のため人のために命懸けの任務で死んでも良いってやつは公務員にはいないだろう。私怨組織だからこそ成り立ってる物語と、後にして思う。

昔聞いた、ヨーロッパの騎士と日本の武士の違い。どちらもお城について戦争する兵隊だが、決定的な差は
騎士は傭兵なので金で雇われてるが、武士は殿さまに仕えている点。

なのでヨーロッパの兵隊は金より命の方が大事なのでいざとなれば逃げるし、敵に寝返ることもある。しかし武士は自分の命を殿様に捧げているので、金で裏切ることもないし、命を捨てて戦えるので武士の方が強い、という話。貴族として騎士道の発展していった後世では意識も変わってくるのかもしれんが。

これに近く、鬼殺隊が給料のために戦う連中ならあそこまで戦えないだろう。
自分の命なんか捨てても構わん、という信念で戦うためにはただの私怨集団の方が説得力がある。そして何の得にもならない、のんびり長生きすれば良いのにわざわざ命懸けで戦いに来る正義の味方である鬼殺隊を「異常者の集まり」と表現する無残の正反対の目線も対立構造としてとても面白い。

<総評>
鬼滅の刃は10年後、20年後も語り継がれるような名作でなく、一過性の熱狂による偶然が生んだ大ヒットだろうと予言する。おそ松さんが1期とクオリティは変わってないのに2期で半減し3期でさらに売り上げがガクッと下がったことからわかるように、腐女子の投資先が鬼滅に移っただけで、彼女たちは10年後はまた別のものに投資している。鬼滅からアニメだけでなく漫画も読むようになったキッズも「あー昔は〇〇の呼吸とかやってたなー」と懐かしむことはあっても、ドラゴンボールやスラムダンクのように完全版が出た時に買いそろえるとは思えない。
それは色んな名作を読んできて、読み返してきた大人の漫画読みたちが「子供に付き合って読み始めたけどきついわ」と言ってることが未来の証明となっている。

しかし鬼滅の残したレガシーをひとつ挙げるとしたら、それはマンガ読み人口の増加や経済効果でなく、嘘松腐女子への新たな呼称を誕生させたこと。

腐女子はツイッターに古くからいるが、実際はモテないくせに少女漫画でしかないような展開でイケメンに言い寄られたとか、ナンパされたけど断ったとか、嘘松ばかりしている。嘘松というのはおそ松さんのアイコンの腐女子が嘘モテエピソードをツイートしたことから根付いた呼称で語感の良さもあって5ちゃんから始まり一気にネット界に浸透した。

もうおそ松ブームも下火だし、鬼滅を元ネタにした嘘エピソードを語る腐女子を何か別の表現で言い表せないか、とねらーが模索していた中で、モテないまま独身で人生を終わる哀れなおばさんの嘘ツイートを的確に表す表現が生まれた。

鬼舞辻無惨とかけて「膣無事無産」と名付けられ「無産様」と呼ばれるようになった。

最近は「誇張しのぶ」というエピソードを誇張する女が「嘘の呼吸」を使い息を吐くように嘘を語る感じがすごくマッチして良いしよく使われてるが、俺としては炭治郎に行き場のない母性を押し付けて嘘ツイートばかりしてる惨めなおばさんの蔑称である「膣無事無産」を鬼滅の残した最大の功績と評価したい。

多分読み返すことはないが、まあ良い作品ではあると思った。

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