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ごみを拾うことで感じたおかげ様の世界


自慢じゃないけど、これまで路上のゴミを拾ったことがほぼない。
会社でゴミ拾いイベントがあった時に参加したことはあるけど、何もない時に個人として拾ったことはない。

以前の私は、私が落としたわけじゃないのに何で拾わないといけないのか意味が分からないと感じていました。

そんな私が先日ごみを拾いデビューをしました。


きっかけ

そのきっかけは、近所にある花壇にごみが落ちていたこと。

この花壇は、毎朝長女を小学校まで送るときに目にしているものです。良く手入れされていて季節の花々がきれいに咲いています。時折、次女がしゃがんで眺めていまては、花のにおいを嗅いだり、触ったりと、いつも楽しませてもらっていたのです。

そんなある日、きれいなお花の上に、コンビニおにぎりのビニール袋が捨てられていたのです。これには私も心を痛めました。「お花がかわいそう」と思って、そのごみを家に持ち帰りました。

その翌日、今度は公園で次女を遊ばせていると、植木の緑の中にコーヒーの空き缶が捨てられていたのです。やっぱり「緑がかわいそう」と思って、このごみも持ち帰ることにしました。


気付いたこと

この時不思議と捨てた人に対する責める気持ちは全然湧いてこなかったのです。

それよりも、これまでの人生でゴミこそポイ捨てはしてこなかったけれど、私の未熟さゆえにたくさんやらかし、たくさん人に助けてもらってきていたんだなと改めて気づかされました。
私が気付いている範囲だけでなく、気付かないところでも誰かが私のフォローをしてきてくれていたのだろうなと感謝の気持ちが湧いてきました。

そう思うと、このゴミを捨てた人も、今は気が付かないだけでいつか気が付いていくのだろう。そして今度は拾う側になっていくのだろうと感じました。捨てる人がいるけど拾う人もいる。
ごみって目に見えて分かりやすいけど、目に見えないところでもそんな循環があるんだなと感じました。

これがおかげ様っていうことなのかなと思いました。この「おかげ様」をどれだけ気付けるか、感じながら生きれるか。それだけであたたかい感謝の気持ちが湧いてきます。


人の脳って不思議ですよね。
これまでは道を歩いていても、ごみなんてほとんど目を向けていませんでした。

ごみを拾うということをしてからは、道や公園に落ちているごみが目に付くようになりました。そうやって見るとたくさんごみが落ちています。いつも誰かがきれいにしてくれているのだと気付かされます。

毎朝、長女を散歩がてら小学校まで送っているので、帰り道にできる範囲でゴミを拾おうと思って時々ごみ拾いをするようになりました。自分に義務として課すとしんどくなりそうだから、気持ちに余裕があって気が向いた時に気持ち良く拾うという事をやっていこうと思います。そしていい事していたら、何かいい事あったらいいな~という下心もしっかりありつつ^^


できる事をするという選択


何事も小さな行為に意味を見いだすことは簡単じゃないと思います。
「ハチドリの一滴」の絵本のように、その一滴は無意味なことに見えるかもしれない。それでも自分にできることをやることは大切にしたい考え方です。

森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
でもクリキンディという名の
ハチドリだけは いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」

ハチドリのひとしずく

一人の力なんて、結局は小さなものだけど、そこで何もしないを選択するのか、できることをするのかの違いは大きいと思います。

最後までお読み下さりありがとうございました。








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