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さやもゆ見聞録 古代との廻(めぐ)りあい ー『復元 渥美古窯』ー               さやのもゆ

愛知県で「やきもの」と、言えば〝瀬戸焼〟や〝常滑焼〟が代名詞のように思い出される。
これらは千年の昔から続いており、現代も産業に成り立っている、有名なやきもの産地だ。
その周辺には、今は途絶えているがー遠い昔に築かれた窯場の遺構が散在する。
うちひとつが、常滑焼で知られる知多半島の南、三河湾の対岸に位置する渥美半島であり、かつてはやきもの生産が盛んな地域であった。

地名をとって『渥美古窯(こよう)』と称される、この〝やきもの〟は、今から約千年前(1100年頃)の平安時代(末期)から鎌倉時代にかけて200年もの間、栄えたという。
もちろん現代に形を遺しているもので、渥美半島のみならず、国内の随所で発見された。調査の結果、渥美古窯(あつみこよう)と同定、国宝に指定されたり、美術館などで展示されている。

この、古き良きやきものに魅了され、当時の手法をふまえて成し得る限り、忠実に再現した方々がおられるという。
豊橋市出身の陶芸家、稲吉オサム氏と、『復元渥美古窯労働組合』のプロジェクトに成るもので、窯を築く土地を提供した地主さんも名を連ねている。
開催期間は、わずか5日間と短いものであったが、さいわい事前に情報を入手できたので、さっそくギャラリーの開催場所である、豊橋市に出かけた。

遠州浜名湖の北岸、国道362号線を西へ向かう。本坂トンネルを越えて豊橋市に入り、県道を南下する。東田(あずまだ)坂の下ってくる先で路面電車と交差、さらに進むとー今度は渥美線と並ぶようになった。ほどなく愛知大学を過ぎた先で信号を左折、線路向こうの道沿いに呉服店がある。

駐車場から案内にしたがって店舗裏にまわり、道路をだてた所にある〝呉服屋の離れ〟が、展示場所の〝裏山文庫〟であった。
普段から、時折開催される骨董品、工芸品の展示やイベント情報は目にしていたが、訪れるのはこの日が初めてだ。

裏山文庫は、小路に面した民家を改装したギャラリーで、木枠のガラス障子が開け放されている。
庇(ひさし)の影に和服姿の男性が立っているのが見えた。主催者の山崎さんである。
こちらから挨拶をすると、「どうぞ、靴のままで上がってください」とのことだった。

さっそくお邪魔すると、中は十畳ほどの板の間になっており、部屋の真ん中には木製の長いテーブルがしつらえてある。
三方の壁のうち両サイドは床の間になっており、白壁を背にした棚台には、渥美古窯の窯場を再現した「穴窯(あながま)」で作陶されたやきものが、十数点並んでいた。
うつわは青みがかった深い灰色をしている。窯で焼かれて色が変わったわけではなく、日光の照り返しではないかという。

床の間の一方には、黒みを帯びた壺が置かれている。高さは40~50センチ程だろうか、近寄ってみると、上部の膨らんだ部分に、間隔を取って数本の円が引かれているのが、目に入った。
その線と線のあいだには、何やら波模様が三角形を作って、描かれているようだ。
何かをモチーフにしたデザインだろうか?と、思いつつー訊ねると、これは「蓮弁文(れんべんもん)」と呼ばれる模様です、とのことだった。渥美古窯の特徴のひとつであり、その名の通り、蓮(はす)の花びらをデザインしたように見える。

ただ、あくまでも現代の呼び方であって、当時の作り手が蓮の花を意識して描いたかは、分からない、という。

横壁の一面には、丼のようなうつわが並んでおり、ひとつずつ眺める。
浅い摺(す)り鉢のかたちをしていて、お茶碗を数十センチほど拡(ひろ)げたように大きい。
触れてみたいと思い、山崎さんにお訊ねすると、手に取るのも撮影もOKとのこと。

お言葉に甘えて、器のまえに膝をつき、両手で大事に持ち上げてみる。厚さは1センチ強はあろうか、重さを感じるのだが、それでいて柔らかな感触も手のひらに伝わってくる。

「こちらは、山茶碗と呼ばれていますが、れっきとした学術名なんですよ。今回再現した渥美焼に限らず、瀬戸や常滑、多治見でも作られていました。古いもので平安時代になります。その後、室町時代まで続きました。もっとも渥美焼は、鎌倉時代に入ったころにピタッと生産が止まったんですけどね。」

お話をうかがったところ、渥美古窯の再現は、先ず農地の斜面に「穴窯《あながま》」と呼ばれる窯場を築くところから始まったという。
穴窯、とはー日本に古くからあるやきもの窯の形である。地形を生かして、トンネルを地下まで掘ったものだ。中国から登り窯(のぼりがま)が伝わる以前の手法である。
窯の入り口は、大人ひとりが何とか入れるほどの狭さで、奥行きは十メートル掘ったという。

「渥美窯の復元にあたり、材料は地元で取れるものを使いました。土は地元・多米(ため・豊橋市北部)の裏山から採った粘土です。
そして、形を整えたうつわを穴窯で焼く際、普通じゃない量の薪(まき)が必要になりましたので、あちこちから出来るかぎり集めました。
それこそ『ウチにある木を持って行ってくれ』と、言って下さる方もいて。」

薪に使うのは〝その辺の雑木〟をイメージ。
木の種類を問わず、地元の木を使ったと言う(ちなみに渥美半島の自然樹木は、常緑樹が多い)。

「穴窯に火を入れてー温度は1000℃くらいです。燃やしたのは3日間でした。
本来なら、もっと長くー7日から10日は燃やしていたかと思いますが。」

また、穴窯は古い斜面を掘り抜いたままの作りであることから、いわゆる〝降り物〟が多かったとのことだ。
見れば、真ん中の木製テーブルの上には、何やらオブジェを思わせる造形物がいくつか置かれている。

山崎さんは、そのうちのひとつを示した。
「これは、穴窯の掘られた天井から剥(は)がれ落ちてきた、土壁の塊(かたまり)なんですよ」と、言う。
サラッと仰ってはいたものの、敢えて危険を冒してまで渥美古窯の復元に賭けた思いは、如何ばかりであろうか。

穴窯はもとより、登り窯と比較しても、やきものを量産するには効率が悪いと言われる。また、構造上温度計を入れての調節が困難だったという。
また、温度が上がりきらなかったので、釉薬をかけた跡が残っているとも。
渥美古窯自体、焼け切らぬものの割合が多いらしい。
したがって、焼き上がった器のほとんどにヒビが入っていたり、割れたものも少なからず有ったという事だ。

あらためて山茶碗を見ると、大抵のものが何処かしらに亀裂が入っている。
中には割れ目を継(つ)いである器もあった。これはこれで、立派な意匠だと感じたので「きれいに継いでありますね」と、言うとー。

「あ、これはですね、作家さんが工房で普通に落として割れたんです」。
何とも、屈託のない返事がかえってきた。

また、落下してきた土壁オブジェの横には、山茶碗が十数枚、積み重なったままに一体化した造形を成している。

こちらは本来なら焼き上がった時に、ひとつずつ外せるところが、釉薬(ゆうやく)が多かった為にくっつき合ってしまい、離れなくなったのだとか。

山茶碗の並ぶ、長い台の真ん中には、円筒型の容器に茶碗型のフタをかぶせたものがあり、手に取るとズッシリとした重みを感じた。
骨壺を思わせる大きさであったが、これは「経筒(きょうづつ)」と呼ばれるもので、お経を納めておく外容器であるという。

用い方としては、外容器の内部に銅製の筒を入れ、その中にお経を丸めて保管しておく、というもの。
昔の事だから、経文は木製(木簡=もっかん)なのかな?と、思ったらー「木簡を入れた経筒もありますが、平安時代は〝紙〟でした」との答えだった。
そう言えば、古典文学の「枕草子」にも、紙が当時の貴重品として登場したのを思い出した。

仏教において、何億年先に弥勒菩薩(みろくぼさつ)様が現れるまで、お経を大事にとっておくー
という思想(末法思想)が、12世紀におこった。
このことが、渥美焼の需要とランクを相当、高めたものと見える。

渥美古窯自体が、宗教的なやきものであったとされ、経筒を始めとした仏具に瓦などは、お寺や役人のオーダーメイドで作られた高級品。
船で各地に送られたものが、生産が途絶えて後の長い沈黙を破って現代に至り、発見されたのだ(遠いところでは、東北の平泉など)。

当時の人びとは、暮らしの中で用いるうつわを自ら窯を築いて焼き上げたのだが、先に述べた宗教的な器とは、ひとつの窯の中に住み分ける形で作陶していたという。

土の感触に、遠い日々を懐かしく思い返すような不思議が、余韻にのこる。

今でも、両手のひらに感じ取れるほどに。














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