山茶碗ってナンダ? バトルトーク観戦記① さやのもゆ
① はじめに
ー〝知識ゼロ〟から〝山茶碗〟への道のりー
6月初旬、豊橋市のギャラリー「裏山文庫」に『復元 渥美古窯』を観に行った際、田原市博物館でも渥美古窯(あつみこよう)をテーマにした企画展『山茶碗(やまちゃわん)ってナンダ』を開催中であるーとの情報をいただいた(7月21日まで)。
後日改めて同館を見学したのだが、「古窯(こよう)」という用語から受ける、かた苦しい印象は無くーむしろ、企画に関わった方々が楽しんでおられる様子が伝わってくる展示内容でー好感がもてた。
もとより〝やきもの〟を見るのは好きな方で、瀬戸や常滑、といった有名なやきもの産地は知っていたし、訪れた事もある。
しかし、「渥美のやきもの」については全くの知識ゼロであっただけに俄然、興味が湧いた。
そのようなわけで、企画展の見学のみにとどまらず、田原市博物館のSNSまでフォローしたのは言うまでもない。
直近の投稿記事を閲覧すると、こんな文字が目に飛び込んできた。
「『山茶碗ってナンダ』なりきりバトルトーク」ー学芸員とコレクターによる本気解説ー
山茶碗はともかく、「なりきり」とは、いったい何の事だろうか?
でもそれは、行けば分かること。
いったん興味をもったら最後、トコトンやらないと気がすまない私。
当日、ふたたび田原市博物館を訪れたのはもちろんだが、この文中では主に、展示会場で繰り広げられたバトルトークの模様を記述している。
渥美古窯にかんする同館学芸員の解説や学んだ事も含め、執筆した。
② ふたたび渥美半島ー田原市博物館へー
この日の午後一時過ぎ、気温38℃の猛暑の中を浜松から車で一時間半ひた走り、田原市博物館に到着した。
田原城趾を復元した堅牢な門扉をくぐり、広い上り坂の左手奥に入った所に博物館がある。
重厚な白壁造りの館内は人気もまばらで、ロビーから続く通路のソファーでひと休みしていると、企画展の展示室より、ふたりの男性が出てきた。
ひとりは学芸員とおぼしき方、もうひとりは和服姿であった。間違いなく、〝本日のバトラー〟のお二人である。
相手は私を知らないけどーと、思いつつ挨拶すると、お二人共こんにちは、と返してくださった。
そろそろ時間なので、会場に向かった。
企画展「山茶碗ってナンダ」の展示室で渥美のやきものを見ていると、先刻ロビーですれ違ったお二人が戻ってきた。
学芸員さんは何やら木箱を持参されてきたが、すぐにまた出ていかれた。
ほどなくして再び会場に入って来た様子、「始めましょうか」という話し声に振り向くとー。
果たして、そこにはありし日の縄文衣裳に身を包んだ学芸員さんが立っていた。
文字通り「なりきり」となったところで、「山茶碗ってナンダ」バトルトークは、はじまったのである。
③「山茶碗ってナンダ」ー渥美古窯についてー
はじめに学芸員(縄文人)、増山さんからのご挨拶と、対するバトラーのコレクター代表・山崎さんの紹介があった。
今回の企画を首謀?したのがこのお二人、とのことで、さっそく舌戦開始かと思いきやー。
「バトルトークに入る前に、まず〝渥美窯(あつみよう)とは何ぞや〟についてお話しなければなりません。」
順路の最初、展示パネルの前に移動して、渥美窯の起こりと歴史の概要を解説していただいた。
「渥美窯(あつみよう)は平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて有ったものです。今では想像できませんが、この地ではものすごく〝やきもの〟が盛んでした。」
渥美半島全体で、窯跡の数は約500基(き)にのぼるという。川に近い谷筋に集中していて、斜面を利用してトンネルを掘り、土で形を整えた器を並べ、薪に火をおこす。通気穴は上部で地上に貫通させるという造りである(全地下式穴窯)。
もっとも渥美に限らず、東海地方自体が現代でも〝やきもの(窯業=ようぎょう)〟の全国的な産地なのだがー。
「そのなかにあって渥美窯は、品質の高いやきものが作られることで知られていました。」
当時は、日本にやきものを伝えた中国のそれに次ぐレベルであったということだ。
現存する渥美のやきもので特に有名なのは、国宝指定の「秋草紋壺(あきくさもんこ)」(東京国立博物館蔵)。
中世のやきものでは、唯一の国宝となり得た。
それが、『渥美窯』であると。
他のやきもの産地ではなく、今は絶えて無い渥美窯であることが、非常に意義深いという。
「渥美窯でつくられたやきものでは、他に宗教に関係したものも焼かれていました。
もっともこれらは、その辺の職人さんが見よう見まねで出来るもんじゃない。そこから考えると、渥美窯には高度な知識をもった人物が関わっていた事がわかります。
そうした高級品は、ここ渥美半島の周辺だけでなく、全国の各地で発見されています。
最も遠いところでは東北地方、特にいちばんのお得意様は奥州・平泉の藤原氏でした。
その証拠に、当時の都であった屋敷跡からは、渥美のやきものが沢山出てくるほどです。
あと、三河の役人(国司)の名前(藤原顕長=ふじわらあきなが)が刻まれた壺(つぼ)が発見されました。
また、渥美半島の西端・伊良湖(いらご)では鎌倉期、東大寺の瓦(かわら)を焼いていたことがわかっています。
渥美半島には、三大古窯と呼ばれる古い窯場跡が残っているのですがー(大アラコ古窯、百々須恵器窯、東大寺瓦窯)。
このように、同じ時代の窯跡が三つとも国の指定史跡になっている例は、全国的に見てもほとんど無いと思いますしーそれだけ、渥美のやきものが有名であったという事になります。
でも、だからと言って珍しいもの・付加価値の高いものばかり作っていたわけではありません。
そのなかで、普通に焼かれていた碗(わん)や皿(さら)などがあったわけでー。
今回の企画展テーマ『山茶碗』は、まさしく〝普通に焼いていたもの〟になります。」
ここで学芸員さんの解説は、渥美窯の概要から本題に入っていった。
④ 「学芸員VSコレクター」バトルトーク
ー渥美窯への愛着と、譲れないこだわりー
「山茶碗ってナンダ」。
この展示には、山茶碗を通じてさまざまな価値観があるということを知っていただきたい、という思いが込められています。
私(増山)は、考古学が専門の博物館代表として。一方の山崎さんはコレクター、使う立場で私に戦いを挑む。
このような構図でトークを展開した方が分かりやすいのでは、という考えで、今回の「なりきりバトルトーク」を企画しました。
私(増山)のように考古学を研究している者は、遺跡などから偶然、発見された物をこまかく分析するのですがー。
そのための方法として、「実測図(じっそくず)」という物をつくります。
学芸員さんはまず、実測用具が並んでいる前に立った。
広げられた方眼紙。かたわらには、垂直に立てて計測する物指しなど、普段見ないような用具も置かれている。
茶碗などの器ものに関しては、これらの道具を使ってサイズや質感を図面におこしたり、記録に残すのだとか。
見るからに年月のかかりそうな、根気の要る作業と思われるが、こうした実測調査の積み重ねによって、山茶碗が時期を追って変遷していった事が分かってきたという。
どれをとっても、同じものは二つと無い山茶碗だが、形によって何時(いつ)の年代物かが分かる、というのである。
「それは、研究50年の蓄積(ちくせき)、なのです。」
学芸員さんは、成果のひとつとして「山茶碗 時期見分けポイント」に図解したプリントを作って下さり、これをテキストに説明をつづけた。
プリントには、当時の普段使いの器であった山茶碗が、時代の流れでどのように形を変えてきたかが、部位ごとに記されていた。
『山茶碗の時期見分けポイント』によれば、見分ける部位は主に6箇所あるという。
①口径(器の直径) 大から小へ
②器の高さ 高いものが低くなる
③高台(底の台) 高いものが低くつぶれる
④胴部(器の底) 膨らんだ形が直線的に
⑤器の厚さ 薄く丁寧なものが分厚くなる
⑥口縁(器のふち) 外反していたのが直線に
展示品でも、実際の山茶碗と小皿のセットが、年代順に左(古い)から右(新しい)へと並べられ、視覚的にも納得のいく説明である。
しかし、なんと言っても今日は『バトルトーク』なので、話はそれで終わらない。
ここで学芸員さんが、対する山崎さんに質問を投げかけた。
「山茶碗の変遷を表した展示についてはーコレクターとして、どう思います?」
そこでコレクター代表・山崎さんの出番である。
この時を、手ぐすね引いて待っていたのかは、定かでない。
だが、少なくともその場にいた私には、思いもよらぬ答えが返ってきた。
「(見たところ)〝焼き〟が甘いと思いますし、僕ら(コレクター)にしてみれば、お金を出して買うようなものではないですね。値段をつけるとしたら、数千円かな?」
学芸員・増山さんは「生々しいですねぇ」と、しつつも、負けじと(?)やり返した。
「確かにー本来の展示(目的)だけを考えたなら、格好良くて形の整ったものを展示すればいいでしょう。その方が、来場者の皆さんにも喜んで頂けると思います。
ですが、今回の場合は考古学の観点から、渥美のやきものが作られていた200年間の、形や大きさの変遷をもっとも表しやすいと思うものを展示したのです。」
山茶碗と小皿を二段に並列した展示品を示しながら、増山さんはさらに続けた。
「こちらの上段左端の器を見ていただくと、取れた破片をくっ付けてあるのがお分かりになると思いますが、これには尚かつ、白いもので補修してあります。
見た目としてはー非常に格好悪いんですね。
だけど、先ほど言った理由で〝あえて〟これを展示しているんです。」
そこへ山崎さんが「金継ぎ(きんつぎ)とかはやらないんですね?」と、すかさずツッコミをいれたのには、少々困った様子。
「いや~それはやらないですね」と、返すも、さらにコレクターならではの観点から、「しかも、体裁よく陳列してない。降り物が付着した、黒くて汚いのは、キレイに整えたほうが良いと思うのですが?」等々。
ここまで言われた学芸員さんにしてみれば、結構なカウンターパンチ?だったと思われた。
だがやはり、考古学を研究されている方にしてみれば、歴史の変遷を表す貴重な資料を、当時の姿に近い形で修復・展示する事が大切な任務なのであろう。
ここでは、判定により?「引き分け」となった。
次のコーナーは、愛知県陶磁美術館(瀬戸市)の学芸員が展示を担当されたということで、テーマは「釉薬(ゆうやく)」。
山茶碗を「ひっくり返して」展示品を決めたのだそう。
増山さんによればー渥美のやきものは、中世の他のやきもの産地(瀬戸など)とはちがい、初期の頃はなぜか、やきものに釉薬(うわぐすり)をかけていたと言うのである。
「ここには、中でも特に綺麗なもの、特徴的なものを選んでいただきました。
碗の内側を見ますと、大抵のものが、緑色の釉薬をタラタラと流し入れてあるのが、お分かりになるかと思います。」
これにはコレクターも「いいですね」と、素直に認め、さらにこう付け加えた。
「骨董市でも、このようなものは無いでしょう。お金では買えないレベルだと思います。」
増山さんの解説は続いた。
「また、茶碗の口の下を見ますと、一本の線が入っています。
これは、中国のやきものを〝プチ模倣〟しているんですね。
釉薬がテーマの展示品は、大アラコ窯(よう)で見つかった物ですがー。
もしかすると、大アラコの民(たみ)は『中国の白磁(はくじ)のマネをして、もう少し値段を高くして売ろうかな』とまで、考えたかもしれません。
ともあれ、このような山茶碗は考古学の上でも良品、と言うことができます。」
対するコレクター・山崎さんにとっても、〝欲しくなる〟一品だという。
釉薬はもちろん、キズも少ない。
しかも、山茶碗を重ねて焼くときの一番上にあったということで、評価も高いのだとか。
ここで増山さんの注釈があった。
「お伝えするのを忘れていましたがー山茶碗という物は、窯で焼く時に一枚ずつ並べるのではありません。十数枚ぐらい重ねて焼くのです。
山崎さんが言われたのは、〝重ねられた碗のいちばん上に、もっとも良いものがある〟ということ。ですが、その代わり窯の上から降り物が落ちてくるので、リスクも高いー汚なくなるわけですね。
今、こうして皆さんの前にあるのは、それらのリスクをくぐり抜けてきた、非常に状態の良いものと言えます。」
このうちの2つの器を見ていただくと分かりますがーこれらは釉薬の色としても、かたや緑色で、もう片方は黄色っぽい。全然違うんですね。
ではなぜ、色ひとつにも違いがあるのでしょうか?
それは、大アラコ古窯(こよう)のやきものの中でも、山茶碗、というよりは白磁、いわゆる中国の碗(わん)をガチに真似した物だから、ではないかと思います。
釉薬だけでなくー形にしても、明らかに違っていますね。
他の山茶碗は、胴部(どうぶ)が少しふっくらとした形をしているのですがーこちらは割とまっすぐに、スポーンとして広大な感じのタイプ。
しかし、残念なことにーこれが少し、割れてまして。
割れを気にする増山さんが、山崎さんにこれをどう思うかと訊ねると、機転の効いた即答が返ってきた。
「これはこれで、良いと思いますね。
理由はまず、発掘されたのが大アラコの地だと分かっている事が興味深い、というのがあります。
同時に、碗の口の造作とか、他とはちょっと違っている。
さらに言えばー碗そのものから、明らかに異質な空気を感じるからです。」
そして、増山さんは渥美窯の主な特徴のひとつである釉薬の使い方について、こう結んだ。
「この山茶碗に使われた釉薬、というのはーもともとは薪(まき)にした木の中に含まれている〝ケイ酸〟というガラス物質の成分です。
薪が燃えて、いったん灰となって器にかかりーそれが再び温度の上昇で溶け落ちる。
こうして焼き上がった器に、ガラス質の釉薬が塗られた格好になるわけです。
釉薬が施される方法には2種類あって、自然に起こる場合(自然釉=しぜんゆう)と、あらかじめ灰を塗っておいて釉薬がかかるようにするやり方(灰釉=はいゆう)があるのですがー。」
「ここにある大アラコのやきものは、すべてが後者。意図的に釉薬をほどこしたものです。」
あらためて、中世を生きた人々の叡知に感じ入ったのは、言うまでもない。
増山さんはいったん話を切り、ふたたび言葉をつづけた。
「われわれ考古学者、とくに博物館の考古学系の学芸員は、今まで皆さんにご説明したような視点やアピール方法で、展示をおこなって参りました。
ですが、近ごろは従来の手法に限界を感じるようになってきたのです。
それで、骨董品コレクターの方とか、さまざまな立場の人に声をかけー『何か面白い企画はできないだろうか』と、相談しながらー今回、初めての企画を試みました。」
そして、増山さんは次に案内するコーナーを前にして、こう告げた。
「ここからは〝コレクターの世界〟になりますので、コレクター代表の山崎さんに解説をお願いしたいと思います。」
これまでの展示はおもに学芸員の手になるものだった。
『山茶碗ってナンダ』バトルトークは、まだまだ終わらないようだ。
ー第2部へつづくー
ここまでお読みくださって、ありがとうございます。 さやのもゆ
参考資料:
『山茶碗ってナンダ』展示資料レジュメ(田原市博物館)
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