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みんなそれぞれひとりでひとりっきり

今日読んだ本

わたしたちはみんな、ひとりっきりよ。わたしは言う。
だけど、今はみんないっしょにひとりっきりだから


父親の暴力から逃げるため家をでたアリソンは、認知症で一人暮らしのマーラに昔の友人タフィーと間違えられたことをきっかけに、タフィーの振りをしマーラの家を束の間の避難所とする。


続きが気になるというより、終わり方がどうなるのか気になりながら読んだ。

マーラとの同居生活の様子が綴られる合間に、アリソンが父親にされたこと言われたことも綴られる。それを読むのがつらかった。

この小説は散文詩の形式で書かれているので、描写が少ない。そして文字が少ないのでページにも余白がたっぷりある。
まるでその余白に自分の感情が誘発されてしまうようだった。
言葉を多用して描写されるより、そうして言葉少なに描写される書き方の方がつらかった。

なので、果たしてこの物語のラストは勧善懲悪がなされ、一点の曇りもないハッピーエンドになるのか不安になった。

でもそうした不安ばかりではなく、幸福を感じる瞬間もあった。
アリソンがタフィーとしてマーラの世話をしたり、一緒にダンスをするシーンでは、彼女たちがDV被害者の家出少女であることや認知症の独居老人であることなど忘れ、ただ友達同士でお互いを思い合ったり、はしゃいだりしているようにみえた。

アリソンやマーラは、はたからみたら「かわいそうな人たち」なんだろうけど、そんな生活の中でも、彼女たちにはささやかなしあわせがあって「かわいそう」に呑み込まれるばかりではなかった。


アリソンはタフィーとしてでも、マーラに必要とされていた。
それは、父親や同居生活の中で新たに知り合ったルーシーから必要とされるようなやり方ではなかった。

後者の2人のアリソンへの態度を見ると、必要としているというより利用しているといった方が正確だろう。
2人は自分で出来ることを人に押しつけているだけ。
自分でやるべきことを人にやらせているだけだ。

私たちはみんな誰もが孤独でひとりなんだけど、それをしっかり受け入れていなかったのがアリソンの父親とルーシーだと思う。

みんなそれぞれひとりでひとりっきりなんだってことを受け入れていれば、誰かを暴力で支配しようとすることもなく、誰かに自分の課題を肩代わりさせて利用するような人間にもならないのではないか。

ひとりでできることはひとりでできるようになるし、ひとりじゃどうしようもないことはちゃんと人に助けを求められるようになる。ひとりで困っている人にも手を差し伸べることができるようになる。

そんなことは全部綺麗事で絵空事で、そんなにうまくはいかないかもしれないけど、自分がひとりっきりであることをきちんとわかっているということは、誰かと一緒に生きていくこと、一人で生きていくこと、その両方にとってとても大事なことなんじゃないか。


彼女たちのこれからの生活や人生に落ちる影は、完全に拭われたわけではないけれど、みんなたったひとりなんだと気づいたアリソンには、ひとりだけど誰かと一緒に生きていけるようになった彼女たちには、しあわせになって欲しい。
誰かと一緒に、その誰かに怯えることなく損なわれることなく、しあわせになって欲しい。

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