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「私のことは放って先へ行って!」考。

途中まで見て忘れていた「鬼滅の刃刀鍛冶の里編」をまた見始めた。最終回の半分くらいまで見た。

最終回の半分くらいとはどのあたりかというと、炭治郎が禰豆子を助けるか村人を助けるかの二択で迷って結局村人を助けることを優先するも、なんかよくわからないけど禰豆子も助かった、というあたり。
最後まで見ればなぜ助かったのかわかるのかな。

炭治郎が鬼に追われる村人を助けるか、太陽の光にやられる妹を助けるかで激しく逡巡しているシーンが長めに描かれていたけど、それを見ながら「これ絶対妹の自己犠牲精神を踏み台にして村人助けに行くパターン」と感じていた。

その予感はしっかり的中し、炭治郎は村人のいる方へ蹴り出され、禰豆子は炭治郎をキツく睨んだ後微笑んでみせる。
その微笑みもうっすら予感できてたもので、うげーーとなった。

「決められない…!」と散々逡巡するくせに、「私のことは放って先へ行って!」と言われたらあっさり放って先へ行く、というパターン。よくあるけど、人から言われて決められるんなら最初から自分で決断してよ、と思わないでもない。迷うんなら「私のことは放って先へ行って!」と言われてもしばらく迷ってくれよ、と思わないでもない。

結局自分で決めきれなくて、人に決めてもらうことで言い訳を確保し、免罪符をもらって安心してるようにみえてしまう。

それで結果禰豆子が死んだら炭治郎はすごく後悔するだろうし自分を責めるだろうけど、どこかであの時禰豆子に蹴られて微笑まれたことを思い出して、少し楽になりはしないだろうか。

禰󠄀豆子の自己犠牲精神を理由に、愛されていることの自覚を持って禰豆子を捨てる。
相手がそうしろって言ったからそうしたんだ、相手もそう望んでたんだ、だから自分は悪くない。
私はそういうパターンや、愛されてる人間の無頓着さ、愛される自覚に胡座をかいてる感じに嫌悪感を抱いてしまう。
そこでその人を捨てることは、ある種愛に応えてることになるんだろうけど、同時に踏み台にしていて、なんかもやもやする。無自覚だったり無頓着だったりするとイライラする。

もちろん炭治郎にとっては苦渋の決断だったのはわかるんだけど、だったら最初から自分で決めて欲しかった。全部自分で決めて欲しかった。使命か家族かで迷うなら、同じ使命を持つ仲間に家族を託して、使命をまっとうしてもよかったのではないか。
玄弥の方に禰豆子を投げて、「あとは頼んだ」とでも言って村人を助けに行くという話ならよかった。

炭治郎は半天狗に「自分にしたことの責任を果たせ」というけど、結局禰豆子が死んだら、禰豆子に蹴られ微笑まれたことを思い出して、自責の念を和らげるだろう。「禰豆子が良いって言ったから」という免罪符は、「この手が悪いんだ」という半天狗とどう違うだろうか。

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