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雨巡りて(上)

私の祖母は八十五歳。名は小夜子という。
二十八歳という当時では晩婚と言われた年齢で祖父と結婚し、母を産んだ。母も三十路で結婚し一人娘の私を産んだのだから、どうやら我が家の晩婚は遺伝なのだと言える。
世間では晩婚が遺伝なんてあるわけないと言われるだろうが、あえてそう考えさせてほしい。
私も、もう二十七歳。
結婚相手どころか交際相手もいない、しがない事務員なのだから。
気づけば祖母が結婚した年齢にもうあと一年を切っていたある日、その人は現れたのだった。


「小夜子さん、いらっしゃいますか」
目の前に現れた男はそう言った。
休日の昼、遅く朝刊を取りに行った私を玄関で見つけるなりそう言った。
男は若く、もしかしたら私よりも年下かもしれないようであった。
「えっと」
突然のことに面食らう。
しまった、私まだ部屋着じゃないの。スウェットにTシャツと完全に無防備な格好のまま新聞を取りに行ったことを悔やんでももう遅い。
とりあえず会社で身につけた「初対面の相手への礼儀」ともいえる人畜無害な笑みを貼り付けて答える。
「すみません、どちら様でしょうか」
その間に即座に頭で考える。
さよこ。小夜子。……ああ、おばあちゃんのことか。
祖母の名が家庭で出ることなど滅多にないので、すぐに思いつくことができなかった。
そして祖母もまた「おばあちゃん」ではなく「小夜子さん」という名前ある一人の女性だという当たり前のことに気づく。
その当たり前を携え現れたこの若い男は一体、何者なのか。男は口を開いた。
「僕は忍田宗治と申します」
「沖田総司?」
「いえ、おしたそうじ、です」
男は幕末の武士に間違えられ慣れているのか、イヤな顔ひとつせず笑って答える。その笑顔は少し眩しい。
「小夜子さんに会いに来ました。いらっしゃいますか?」
いらっしゃるも何も、と私は祖母の今の姿を思い浮かべる。
一日の大半をベッド上で過ごすようになった祖母は、昔のような気丈さをどこかに落としてきたかのように静かであった。
日だまりのような明るい優しさを与えてくれていた祖母は、今は夕陽の沈みかけのような侘しさを家庭の隅にひっそりと落としている。
そんな風に思う自分も嫌なのだが、仕方ないと考えるしかなかった。
しかしなぜこんな若い男が老年の祖母を訪ねてくるのか。
失礼と思いつつも疑問を口にせずにはいられなかった。
「あの、貴方は祖母とはどういった関係で」
不審に思われていることなど考えてもなさそうな、屈託のない笑顔で彼、忍田さんは答えた。
「友人です」
その答えに、私は「はぁ」と間抜けに返すしかなかった。
妙な話である。もうすぐ米寿も迎えるという私の祖母とこの目の前に立つ青年に、どんな友人関係があるというのか。
そんな怪訝な思いはすぐに伝わったのだろう。忍田さんはもう一言付け加えた。
「絵画仲間です」
「あ……もしかして、日向町の?」
ピンときた私がそう言うと、彼はコクリと頷いた。

祖母は数年前に病気で倒れるまで、とある絵画サークルに所属していた。
近所の日向町にある小さな絵画教室の一角で、老人同士が集まり開かれていたのだという。
そういえば一度、祖母を迎えに車で行ったことがある。
中では小学生くらいの子から、私と同じ歳くらいの人、壮年ともいえるおじさまなどが思い思いに筆や鉛筆をあやつっていた。その中で先生らしき眼鏡の中年男性が歩きアドバイスなどをしていた。
祖母ら老人組は教室の片隅で長テーブルを設け、水彩画を楽しんでいた。祖母が隣に座る見知らぬ老齢の女性と楽しげにお喋りしていたその光景は、私も楽しそうだな、と口を綻ばせた思い出がある。

「小夜子さんは僕の先生だったんですよ」
客間にて用意したお茶を一口すすると、彼はそう言った。
両親は揃って出掛けており、家には私と祖母だけだったので私の判断で彼を家にあげた。
見知らぬ若い男を上げるなんてと後で言われるかもしれないが、忍田さんは悪い人には見えない。
「彼女の筆使いはとても繊細でキレイで。どうしたらそんな風にキレイな絵を描けるのですか、と僕から声をかけたのがきっかけなんです。彼女は笑って言いましたよ。私はただゆっくり筆を動かしているだけなの、焦らずゆっくり……と」
その言葉は祖母らしいと思えた。
おっとりとした祖母は家庭でも柔らかい空気を作っており、それにつられて娘や孫の私たちまでおっとりとした性格になってしまった。「君らを見ていると急いでるこっちが変に思えちゃうよ」と言ったのは何事も時間通りに進めたい几帳面な父である。
そんな祖母にわざわざ会いに足を運んでくれたのは、孫としてもとても嬉しい。
嬉しいが、素直に喜ぶことができない事情もある。
「祖母は今ほぼ寝たきりの状態で。その……最近では少し記憶も曖昧になっておりまして」
老年性認知症。五年前に脳梗塞を発症し倒れた祖母は、その時の後遺症で認知症となってしまった。
もともと口数も多くなく自己主張の少ない祖母だったのですぐには気づかなかった。しかしその魔の手は着々と祖母から思い出を奪っていたのだ。
作り上げてきた思い出の雫はポタポタと、祖母の手のひらからこぼれ落ち蒸発してしまった。しかし時に雲となり手のひらに雨を降らせ、ひょんなことから正気の祖母の姿を現すこともある。その時はドキリとこちらも驚くのだが、すぐにまたそれらはこぼれ落ちる。それが蒸発しどこかへ逃げていくのか、また雲となっていくのかはわからない。当人である祖母でさえも、わからないのだ。
「ですから本日来て頂いたのは大変有難いのですが、面会はあまりお勧めは……」
すぐに祖母の部屋に案内せず、客間へまず通した大きな目的はそれであった。言葉の最後を濁した私に忍田さんの眉が下がる。無言の訴えに目を伏せる。
「そうでしたか。すみません、突然来てしまいまして」
「そんなことありません」
それ以上私からは何も言えなかった。無意識に彼の「では帰ります」の言葉を待っている。しかし、彼は予想外の言葉を発した。
「それでもいいです。小夜子さんに会わせてくださいませんか」
「えっ」
驚く私に、彼の力強い瞳がぶつかった。
「もし僕と会って混乱してしまうことを懸念されているのなら、無理にとはいいませんが」
「いえ、そんなことはございませんが」
認知症とはいえ性格は穏やかなままの祖母なら、見知らぬ男性が会いに来ても歓迎してくれるだろう。というよりも、最近では私のことさえわからず「まぁ可愛らしいお嬢様ね。お名前は?」なんて声をかけられるのだ。おそらく彼も同じような言葉をかけられるだろう。
「会ってもわかってはくれないかもしれませんよ」
「承知のうえです」
もしかしたら、彼も認知症の老人と対峙したことがあるのかもしれない。全てを受け止めたかのような穏やかな瞳に、それ以上断ることは私にはできなかった。

私は彼を離れにいる祖母の部屋へ案内するため、会話もそこそこに席をたつことにした。




続く

#小説 #短編小説

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