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灰色猫を召喚する方法

「読書に欠かせないものといえば?」と聞かれれば、私は迷わずこう答える。「猫だ」と。
喉を潤す飲料でもなく、体を預けるソファでもなく、気分を落ち着かせる音楽でもない。
必要なのは小さな鼓動を響かせてくれる温もりと、気まぐれなちょっかい。それだけあればいい。

仕事へ行く前に、通り道の公園へ足を運ぶ。
そこは市立図書館と隣り合わせの少し大きめの公園で、私は天気のいい日には必ず寄るようにしていた。
片隅にあるベンチに座りカバンから取り出した本を広げる。
すると召喚魔法のようにそいつは姿を現す。灰色の野良猫……通称ハイジ。灰色だから、という理由の簡単な名付けだが存外にこの名を私は気に入っている。
「ハイジ、おはよう」
ハイジは小さく鳴くといつもどおりに私の膝上へと移動した。心地いいポイントを見つけるためにぐるぐる何度もまわり、私の腿を踏みつける。汚れをいくつもつけてようやく納得した体勢で丸くなった。
「オッケー?」
ハイジは答えるでもなく顔を背ける。その視線の先には、私が持つ本が開かれている。
文章の羅列がその琥珀色の瞳に映し出されている様は、何度見ても美しい。
さあ、行こうハイジ。物語の世界へ。

いつからこうして始まっていたのかは覚えていない。
いつの間にかこの野良猫ハイジは私に懐いていた。
出勤前に公園のベンチで本を読む私の膝に乗り始め、その身を預けた。野良猫とは思えないほどの警戒心の無さに最初は驚いたが、もっと驚いたのはその視線の先だ。
てっきり丸まって寝るかと思ったその灰色猫は、ただじっと私が読む本を見つめていたのだ。
最初は本が邪魔なのかと思って少し浮かせて読もうとした。
しかしそうすると、ハイジは本を引き止めるかのように手を出した。自分にも読ませろと言っているかのように。
まさか本当に猫が本を読めるとは思ってもいなかったが、その「猫が本を読もうとしている」かのような動作が面白くて、私はハイジと一緒に本を読むことを受け入れた。
何よりも、ハイジの体の温かさが私を虜にしたのだ。
膝の上の温もり。人間よりも少し早い鼓動と呼吸。たまに鳴る喉元の振動に、ときおり飛び出る猫パンチ。
それらは私と本の時間を、何よりも至高のものにしてくれた。
この世にこんなに崇高で尊い時間があっていいのかと思えるほどに、灰色猫は密やかな神聖さを引き連れて私を魅了した。
海に潜るよりも深く、山が雲に届くよりも高く、無限の宇宙よりも広大に。
鮮やかに広がっていく読書時間をもたらすこの猫は、私にとって欠かせないものとなっていたのだ。

そして今日もタイムリミットは近づく。
通勤の電車の時間が近づいていることを腕時計で確認すると、私はハイジの背を撫でた。名残惜しく撫でるといつもハイジはわかってくれるのだ。
「ごめんね。もうそろそろ時間だ」
ハイジは小さく鳴いた。仕方ないとも、不服そうに文句を言っているようにも思える。
本を閉じるとハイジはひらりと膝から降りた。重さのなくなった膝上は、少し寒く寂しい。
本を鞄にしまい立ち上がる。さぁ、また満員電車に乗って戦場へ向かわねば。
大丈夫。エネルギーは満タンだ。

ハイジは見送りなどしない。本を閉じたと同時に姿を消す。
もう自分の役目は終わったとばかりに己の世界へ帰っていく。魔法の時間は終わったのだ。
見上げた空は曇天の灰色空。
でもその色はもうすでに、私の味方のように心強く思えた。

#小説 #短編小説

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