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春太の受難な一日

空気を引き裂くような物音を立ててそれは砕け散った。
落下したのは高さ一メートルばかりもあろう棚の上に置いてあった、ガラスの一輪挿し。
挿されていたピンクのガーベラは、小さく出来た床の上の水たまりの中でクタリと倒れていた。
「や、やっちまった……」
春太は一気に血の気が引いた。
このガラスの一輪挿しは、里佳子が大切にしていた物だと知っていたからだ。
綺麗好きで物をとても大切にする里佳子。
『これを見たときね、運命感じちゃって。つい買っちゃったの』
そんな風に楽しそうにガーベラを飾った里佳子の顔と声が、脳裏を横切る。
(や、やばい! なんとかしないと!)
薄いガラスでできたそれは、あっという間に砕け散った。
春太は近くにあった箒を持ってくるが、細かすぎるそれは完全には取りきれない。
(そうだ掃除機! あれなら……)
家事はいつも里佳子に任せきりの春太だが、今ばかりはそうはいかない。クローゼットへ足を向けたそのとき、電話が鳴り響いた。
「くそ! 誰だよこんなときに」
春太は受話器を取った。
「はい、もしもし!」
「あれ? 里佳子いねぇのか」
その声を聞いて春太はカチンときた。
何かにつけては里佳子に言い寄ってくる、クラスメイトの秋彦だったからだ。
「秋彦てめぇ! 里佳子に言い寄るんじゃねぇよ!」
「うっせーな、春太。里佳子に代われ」
「誰が変わるもんか!」
春太は電話を手で切ってしまった。秋彦の声なんて聞いていたくもないからだ。
姉である里佳子にこんなに固執している春太を、秋彦はシスコンだとからかってくる。
シスコン上等だこのやろう、と春太は電話に向けて舌を出した。
が、その後すぐに聞き覚えのある足音と声が聞こえた。
「ただいま〜」
里佳子の帰宅だった。
「げ!里佳子!」
「あ、春太ただいまー」
ニコリと笑う里佳子は買い物袋を下げる姿も可愛い。
しかし春太は今日は素直に里佳子に駆け寄ることができないでいた。そう、まだアレを隠せていないからだ。
「あ、えと、その……」
「どうしたの春太? そわそわしちゃって」
春太は必死に隠そうとする。しかし、残念なことに里佳子の方が背が高かった。
「……あー!」
叫ぶ里佳子。あえなくそれは見つかってしまった。
「春太! あんた私のお気に入りの一輪挿しをよくも〜!」
「ひー、ごめんなさい里佳子ぉ!」

「……何やってんの、里佳子」
連絡がどうしても取れなかった秋彦は、直接里佳子の家へ遊びに来た。
そこにはお腹を天井へむき出しにし、里佳子にそれを突かれている春太の姿があった。
「あ、秋彦! 聞いて〜、春太ったら私のお気に入りの一輪挿し壊しちゃったの〜」
「ああ、だからさっきの電話でキャンキャン興奮してたのかな」
チラリと秋彦が視線を向けると、仰向けにしていた春太は気まずそうに里佳子からの罰を受けている。
優秀だと言われるゴールデンレトリーバーも、こうした降参ポーズを取っていると何とも滑稽に見えるものだと秋彦は思う。
里佳子は楽しそうに意地悪そうに、ぷにぷにと茶色いお腹を突いている。
「春太〜、今度物壊したらぷにぷにの刑じゃ承知しないわよ」
すると春太はクーン、と小さく声をもらした。
「なんか春太ってさ、人間の言葉分かってそうだよな。さっきの電話でも何か俺、悪態つかれた気ぃするもん」
「ふふ、春太は頭いいわよ。さっきも箒でガラス片を隅にやろうとした痕跡あったし」
そう言われチラリと部屋の片隅を見ると、犬の歯型が柄に残った箒が廊下に転がっていた。
「春太は私の一番可愛い弟よ。ね、春太」
里佳子はそう言うとお腹をわしゃわしゃっと掻いた。
それを春太は甘んじて受け、ワフワフと幸せそうに床で転がった。

#小説

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