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空に溶け込む

土を蹴って、駆けるそのひとときがシリウスは好きだった。
走って、走って、走って風を受けて。でも視線だけはあの赤い円盤を捕らえて。
そしてここだというときに、己の身体能力全てを発揮し跳び上がるのだ。
そうすれば身体は空に溶け込む。
喜ぶあの人の声も遠くで聞こえる。
勇んで円盤をあの人へ持ち運べば、力強い腕でわしゃわしゃと掻かれる。そんなひとときが、シリウスは一等幸福であった。

いつからか、あの人はもう円盤を投げなくなった。
代わりに機械のような装置に座り、日中家の中にいることが多くなった。その装置を「くるまいす」と呼ぶのをシリウスは日に日に理解した。
散歩はあの人ではなく、他の家族が連れて行ってくれるようになった。でもそれはシリウスには不満だった。
あの人でなければ、円盤を遠くに投げられない。
あの人でなければ、力を目一杯使って跳躍させてくれない。
あの人でなければ。
あの人でなければ。
あの空には、溶け込めない。
シリウスはついに痺れをきらせて、部屋の隅にあった赤い円盤を口に咥えあの人の元へ駆け寄った。
それを見てあの人は見たこともない表情を見せ、弱い力でシリウスの茶色い毛並みを撫でた。
「もうまえのように、なげられないんだよ」
シリウスに人間の言葉など分からない。
どうして以前のように、歯を見せ笑い、力強く毛を掻いてくれないのかなど理解もできない。
円盤を口に咥えたまま首をふり、遊ぼうと尻尾を揺らす。
「……なげてほしいのか」
シリウスに人間の言葉など分からぬ。
でも何だかその声に一種の切なさを感じ、シリウスはうぉんと小さく吠えた。
途端にポトリと落ちた円盤を、あの人はそっと拾い上げた。
低い部屋の天井にそれを掲げ、眩しそうに電気の明かりに目を細めた。
そしてふいに、赤いそれを投げた。
狭い空間でそれはふわっと浮き、瞬時にシリウスの興奮を呼び寄せた。
甲高い声を上げてシリウスは尻尾を振り、見事にキャッチする。広くない場所でのパフォーマンスは見事に飾っていた小物や家具に衝撃を与え、シリウスはびっくりしながらも着地した。
パタパタ、と廊下から他の家族の足跡が聞こえる。
「どうしたの、なんのおと」
家族は部屋の中の状況を把握すると「あらら」と散乱したものを集め始めた。
「ごめん、かあさん」
そう言ってあの人は頭を掻いた。
シリウスはおずおずと赤い円盤をあの人の手元に持っていくと、笑って受け取ってくれた。
そして。
わしゃわしゃと、力強く毛を掻いてくれたのだ。
うっとりと目を閉じればそこに、いつしかの青い空がシリウスには見えた。

土を蹴って、駆けるそのひとときがシリウスは好きだった。
その距離が前よりは短くなろうとも、青い空を背景に笑顔を見せるあの人は変わらないのだから。
「シリウス、いくよー!」
そう。その声。その表情。
シリウスは喜びを全身に溢れさせ、そして早くキャッチしたくてうぉんうぉん鳴いた。
「それ!」
風を切って飛んだ赤い円盤は、青い空でよく目立つ。
シリウスは左右に翻弄しながらもキャッチする地点を定める。
「いけ! シリウス!」

耳に溶け込むはあの人の声。
目に飛び込むはあの人の顔。
空を背負ったあの人は今日もそこに居る。
それが堪らず嬉しくて、シリウスは身体を空に溶け込ませた。


#小説

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