一番はじめの出来事

 2010年秋。ライター駆け出しの頃、20代半ばだったわたしと同世代のライターがまあまあそれなりにいた。そのうちのひとりがインディーズシーンに精通しており、彼女が薦めていたのがthe cabsだった。

 ほどなくしてthe cabsは残響レコードから全国デビューすることになる。公開されたばかりの「二月の兵隊」のMVを観て、あらためて天才だと思った。

 殺伐さと激情が入り乱れる3人のグルーヴはナンバーガールのそれを優に超えていて、なかでもソングライターである高橋國光氏の才能はずば抜けていた。繊細さと知性が通う音づかいや歌詞には深い深い奥行きがあり、身体ごとそのなかへと引きずり込まれていきそうだった。聴きながら目を閉じると瞬時に全然違う場所に連れてってくれるし、ストロボが光るみたいにいろんな景色が見える。全然知らない世界も見えた。その世界観は映像監督としての表現ともつながっていた。

 周りのライターたちの間でも「the cabsはやばい」と持ちきりだった。cinema staff、tricot、indigo la End、きのこ帝国、plentyなどの若手で、ポストロック/オルタナ/エモ/シューゲイザーの影響を受けた、若い世代による新しいギターロックムーブメントが起こるに違いないと信じてやまなかった。

 だが2013年2月。the cabsは解散した。手元には行く予定のライブのチケットがあった。だが怒りや悲しみはなかった。ただ、素晴らしいバンドがなくなってしまったことが、ただただ寂しかった。

 それから数ヶ月して、ふと國光さんのブログを見に行ってみたら、記事が更新されていた。安堵した。それからというもの、ふと「國光さん元気かな」と思い出したときにアクセスしていた。國光さんの綴る文章は、触ると壊れてしまいそうなほど華奢で、鋭利で、だけどどこか可愛らしさもあって、あたたかかった。

 当時は数少なかった、SoundCloudにアップされた楽曲をBGMにしながら、当時勤しんでいた文字校正のアルバイトをしたりもしていた。同世代のライターたちは、またひとり、またひとりと書くことを辞めていった。わたしはいろんな葛藤をしながら、バイトに明け暮れながら、この仕事にしがみついた。

 the cabsが解散しなかったら、日本のバンドシーンはどうなっていたんだろうか――。2014、5年くらいはよくそんなことを考えていた。だけど、ふと思い出したときにアクセスする國光さんのブログを読んでいくうちに、その気持ちはじょじょに減っていった。表舞台に立たなくても、音楽を作っていることが、とても喜ばしかったからだ。

 österreichの活動もリアルタイムで追っていた。もちろん「無能」のリリースは心からうれしかったし、「楽園の君」を聴いたときはとにかく胸がいっぱいになった。なかでも感動的だったのはやはり、彼がギターを弾いていたことだった。どこからどう聴いても彼のギターで、滑らかさも瑞々しさもそのままで、彼が生きていることを本当の意味で実感できた気がした。

 前置きは長くなったが、なんやかんやわたしはずっといちリスナーとして高橋國光という人のことを気にしていたのだ。だがまさかそんな彼と会えるどころか、cinema staffの取材に同席していただけるだなんて、まったくもって思ってもみなかった。

 初対面だから「高橋さん」とお呼びするように気をつけていたけれど、いつの間にか気付いたら「國光さん」と口走っていた。だが仕方ないのだ。ずっとわたしにとって國光さんは國光さんだ。図々しいと思われたとしても、「國光さん」と声に出すことを、身体が求めていたのだ。

 cinema staffも國光さんも、全国デビュー時からリアルタイムで聴いてきた音楽家だ。ちょうど専門学校生~音楽ライターアシスタント~ライター駆け出しという、多感で不安定な時期に知ったアーティストだったので、思い入れも深かった。

 そんな2組が「斜陽」という曲を共同制作した。これまでのすべては、こんなにもいい曲が生まれるためのあれこれだったのかもしれないな、と思った。曲の途中、自然と涙が溢れてきた。高橋國光という人物とcinema staffの歩み、そして高揚が一糸乱れず重なった瞬間だからだろう。

 インタビューでは遠慮のない言葉が飛び交っていた。いい記事にしたい。


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