(劇評)連なりに果てはなく

烏丸ストロークロック『まほろばの景』の劇評です。
2018年2月11日(日・祝)13:00 ロームシアター京都 ノースホール

 父が、母がいる。祖父が、祖母が、いる。誰にも親はある。「わたし」がここにいるのは、わたしではない誰かがそこにいたからで、誰かから命をつながれたからだ。

 過去帳という物がある。亡くなった先祖の戒名などが記されている、家の歴史が詰まった書物だ。舞台の上、女の手で過去帳が投げられ、蛇腹状の頁が長く伸びて宙を舞い、地に落ちた。「わたし」につながれた命たちが形となって舞台上に現れた。その命のどれ一つが欠けても「わたし」は存在しなかった。その奇跡のような連なりは、尊いからこそ、重い。

 烏丸ストロークロック『まほろばの景』作・演出の柳沼昭徳はこの作品で、「いきにくさ」を強く感じている人びとを描いた、と当日パンフレットにあった。
 誰しも大小の生きにくさは感じていることだろう。持って生まれたもの、後から付与されたもの、つらさにもいろいろな種類があるが、つらさを抱えないで済むのなら、そのほうが楽には違いない。持ってしまったつらさをを手放す術を見つけることは、容易ではない。

 舞台の天井からは白く長い布が何枚もつり下げられ、舞台の奥を見えなくしている。時折布の隙間から、後方を動く人物が見える。その様子は、霧に覆われでもした視界の悪さを表現しているようだ。舞台奥の中心ではチェロが生演奏される。

 山の中、リュックサックを担いだ男は、人を探していた。彼が勤務していた障害者施設にいた青年が、いなくなったのだ。人に尋ねるも、青年の失踪時期が半年前であると知ると、誰もが生存を否定する。遺品だけでもと男は懇願する。
 山中を探索する彼の姿に、彼のこれまでの記憶が混じる。震災による津波。震災後に再会した女性。地元を離れた友人。施設の青年とその姉。
 青年は地元仙台を離れ、老人養護施設に勤めるも退職し、熊本に震災ボランティアとして出向くなどしていた。震災後、彼は後ろめたさを感じているのだ。友人は「生きろ」という。しかし、どう生きればいいのか、彼にはわからない。勤めた障害者施設で出会った青年とその姉と、共に暮らしていけるかとも一時は思えた。だがそこにもいきにくさはある。
 やがて彼は山伏たちに導かれ、山を登る。山伏の突く杖の音が響く。山伏たちは神楽を舞う。幼少時に習ったものの、よく覚えていない男はうまく踊れない。男が山を登った先には何があるのか。

 男は許しを求めていた。自分がこれまで為してきたことに対する許しだ。いきにくさを抱えたまま、もがくように生きてきた。体におもりが付けられているみたいだ。何故そんなものが付いたのかはわからないし、わかっても取り外せない。何を恨めばいいのか。自分か。生そのものか。「わたし」の否定は、わたしを生み出した連なりの否定にもなる。

 男が山頂で見つけるのは、彼自身だ。そこにあるのは「わたし」の肯定だ。何によって肯定がなされるのか。それはここまでつながれてきた記録と、記憶と、命の連なりによってではないか。途絶えることがなかったその長い長い連なりの奇跡は、畏怖すべきものとなって、いつだって「わたし」に紐付いている。

 いきにくさが消えることはないだろう。後ろめたさも消えないだろう。しかし何もかもを手放すことができたとして、それは自由なのだろうか。それは真の孤独ではないだろうか。一人でこの世に生まれ、一人で生きていかなければならない。しかし、自分だけの力でこの世に生まれたわけではない。「わたし」は、途切れることのない歴史という鎖の一部なのだ。その一部であることの重さを背負って山を登る。山頂に風景を見ることができるのは、自分の力だけではない。背負った記録、記憶、歴史が見せてくれるのだ。

 記録と記憶を確かに受け取り、丁寧に織り合わせ、歴史として後に残す。烏丸ストロークロックの手によって作り出された物語は、一人一人の生に呼びかけ、共に歩き、かけがえのない生の道筋、その一本一本を導き出す。

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