(劇評)『劇処』風の流れを追って

この文章は、2016年11月5日(土)19:00開演の演芸列車『東西本線』『CSG48~48番目の赤穂浪士~』についての劇評です。

 さあっと風が吹き抜けたように思える芝居だった。しかし、温風、冷風、順風、逆風……何とも形容し難い。この捉え難さの理由はどこにあったのか。

 浅野内匠頭の仇を討つため、吉良上野介邸に討ち入りを果たした赤穂浪士たちの物語が『忠臣蔵』である。討ち入りに参加したのは47人と語られてきたが、実は48番目の赤穂浪士がいたのだ。演芸列車『東西本線』の『CSG48~48番目の赤穂浪士~』(脚本・演出 東川清文 )は、この史実を元にしたフィクションである。

 浅野内匠頭が切腹してから、一年が過ぎた。臣下にあった藩士たちは敵を討とうと、討ち入りの起請文を大石内蔵助に提出するが、これを返されてしまう。納得いかないのが堀部安兵衛武庸(西本浩明)。間十次郎光興(中西弘)と共に、萱野三平重実(東川清文)の家を訪ねる。皆でもう一度大石内蔵助に直談判しようというのだ。息子の安兵衛を追って、堀部弥兵衛金丸(新保正)もやってくる。直談判するかどうか、票を入れて決めようということになり、碁石が用意される。白が多ければ行う。黒ならばあきらめるとする。その結果、白が3つに、黒が1つだった。もう一度投票が行われるが、結果は同じ。黒を入れた者探しが始まる。

 だれが黒を入れたのか? その推理もこの劇の楽しみの一つだろう。だが、歴史に通じた人物ならば見当がつくかもしれない。推理の予測がつく人にも、わからない人にも、見せようとしたものは何なのか。主君への忠義、守るべき家、己の命。今自分は何を大事とするのか。揺れ動く、藩士たちの心の動きではないか。
 生死のかかった決断を前にしているのだが、登場人物たちの言動に重さが足りないように感じた。悲壮さを取り除き、沈鬱にならずとも観られる作品にしたかったがゆえの空気感かもしれない。だが、藩士たちの心の葛藤がテーマであるとするならば、葛藤の原因の多くを占める問題である、命について、より慎重な扱いがなされてほしく思う。また、場面の多くが会話で進むため、ここぞという見せ場が足りなかったように感じる。間の取り方が重要視されていたが、その静を打ち破る動が、もっと強くともよかっただろう。
 重さが伝わらない理由の一つとして、彼らが刀を持っていないことが挙げられる。刀を持たないことで彼らは、制限から自由になっているように見えるのだ。 史実として持っていなかったのか、あえて持たせなかったのかは分からない。どちらにしろ、刀という武器を持たない、丸腰での彼らの心意気を、もっと高い熱量で見せて欲しいと感じた。

 歴史の中において、人の一生は、一陣の風のようなものだろう。さらりと流れるように描くのも手法の一つだ。だが、ここにあえてその生きざまを取り出したのならば、その流れを一時留めおくような、印象的な錘(おもり)が欲しかった。


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