(劇評)まどろみの中の物語

金沢泉鏡花フェスティバル2017 プレイベント ~100年目の「天守物語」~ 舞台『天守物語』の劇評です。
2017年10月8日(日)19:00 金沢21世紀美術館 シアター21

 恥ずかしながら、能を観ていて眠ってしまうことがある。しかしそれは、もちろん演者や周囲の観客に申し訳ないことではあるが、気持ちの悪いものではない。うつらとぼやけるもやがかった頭の中に、厳かに声が響き、静かに何かが忍び寄ってくる。ふわふわとした心持ちの脳は、それを素直に受け入れる。そんな感覚があるのだ。

 泉鏡花原作、能楽師の安田登が脚色・演出を行った『天守物語』を観劇後、前述の状態で能を観た時のような感覚があった。確かにそこで表現されるものを、起きていて観ていたはずなのに、それらは不思議と記憶から遠い。しかし、何かを観たという意識、何かが届けられた手応えは残っている。演者達によって作り出されたまどろみは、無意識下に物語の侵入経路を開いていた。

 黒い床がそのままの舞台は狭く感じる。舞台上手奥には、キーボード類。下手奥には、パーカッションとフルートのような長い金管楽器。それら音楽のための設備がある他は、椅子や、書見台らしきものが置かれているだけである。

 物語は、泉鏡花(東雅夫)と芸者(玉川奈々福)が、姫路城を訪れる場面から始まる。姫路城についてのうんちくを語る鏡花とそれを聴く芸者は、左右に分かれて置かれた椅子に座り、『天守物語』の語り手となる。
 舞台は二部構成となっている。前半は、播州姫路白鷺城の天守閣の、不思議な住人達を描いた「妖怪編」。後半は、天守閣を訪れた鷹匠と、天守の夫人富姫との「恋愛編」である。

 天守夫人富姫を、猪苗代の主、亀姫が城主の首を土産に訪ねてくる。手土産の返礼にと、富姫は姫路城主の白鷹を奪い、亀姫へと贈る。
 富姫を演じるのは、人形である。操るは人形師の百鬼ゆめひな、声は安田登が担当する。人形であることにより、富姫の人離れした美しさが表現されている。
 富姫のみならず、この芝居では、動きと声を別人が演じている。これは能楽で、物語や登場人物の心情を、地謡(じうたい)と呼ばれる合唱隊が謡う手法を用いているものだ。能楽師の安田登と奥津健太郎、浪曲師の玉川奈々福が声を使うことにより、世界観を均一にしつつ、声の表現力で聴かせる台詞が発せられていた。

 またこの舞台で特徴的なのは、音楽の生演奏、そしてダンスである。
 上手と下手に位置する音楽隊が、臨場感のある音楽を奏でる。これも、舞台上で楽器が演奏される能との共通項だ。キーボード類のヲノサトル、太鼓、パーカッションの森山雅之、笛、フルートの上野賢治は、時に和風な音色を、時に現代的な音を響かせた。
 その音にのってダンスが繰り広げられる。これが、ストリートダンスであることが興味深い。
 この前半には、一般公募された多数の子供と大人が、妖怪役として参加していた。決して広くはない舞台スペースいっぱいに動く妖怪達。その中で繰り広げられるダンサー達によるダンスは、身体能力の高さと、練習の精密さを思わせた。

 後半は、その夜、鷹を追って鷹匠、姫川図書之助が天守閣にやってくる場面から始まる。富姫は図書之助に魅了され、彼を匿う。しかし追手により、青獅子の眼を突かれてしまうと、二人は盲目になってしまう。悲嘆にくれる二人の前に、獅子頭を彫った近江之丞桃六が現れる。彼が獅子頭の眼に鑿(のみ)を当てると、二人は光を取り戻す。
 二人の眼に光が戻ったラストシーン。天守閣の住人達は歓喜の踊りを舞う。能の舞と、ストリートのダンスが交差する。こんなに賑やかなラストを迎えた天守物語は他にないだろう。
 能の技法でアレンジされた舞台であるが、同時に、能を現代の技法でアレンジした舞台であるとも感じた。フェスティバルにふさわしい、挑戦と意欲にあふれた舞台だった。

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