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(劇評)普通の人々の普通の弱さ

110SHOW++『ジュリーがライバル』の劇評です。
2018年7月27日(金)19:30 金沢市民芸術村 ドラマ工房

 ジュリーみたいなアイドルになりたいと願う女性が、この物語の発端ではある。だが、『ジュリーがライバル』(作:小山功治朗、演出:高田伸一)は、彼女がアイドルを目指して四苦八苦するような話ではない。彼女の突然のアイドル志望宣言によって揺れる家族の話である。

 客席から見てダイヤ型に設置された舞台の、四辺から通路が伸びている。舞台の上には、畳が敷かれている。畳の中央には黒い箱で組んだ大きめのテーブルがあり、その上にはポット、急須、茶碗などお茶のセットが載っている。舞台手前のほうに、小さな机と椅子が置かれている。舞台背後には、柱が立ち並ぶように、障子がオブジェのように並んでいる。

 母(高田里美)と長女(浅賀千鶴)がお茶を飲んでいると、二階からドタバタと音がする。音の主は三女(松原和江)。ひきこもっている彼女は、下へ降りてきて突然宣言するのだ。アイドルになりたいと。その突拍子もない希望に、なぜか母は乗り気である。
 実家に帰ってきた次女(西彩巴子)には、何か事情がありそうだが、それを差し置いて母は、三女のアイドル化のために意見をもらおうと次女の娘・たか子(駒村千尋)を呼ぶ。娘はさらに、知人であるアイドル好きの男性(高田滉己)を呼ぶ。自分の部屋である舞台手前の机と椅子から出てきた祖母(山本久美子)、次女を追ってきた姑(遠田昌子)も巻き込んで、母は三女に、まずはアイドルとしての自己紹介をさせようとする。
 三女は、父を失ってから引きこもりとなった自分の素直な気持ちを吐露して、自己紹介を終えた。その後なぜか、長女が続いて自己紹介を始めるのである。自分はアルコールに依存していると。そして次女へと、その場にいる人々の自己紹介が続けられる。一人を除いては。彼女達は、それぞれに問題を抱えている。そうなるに至った状況と心情が、役者達によって丁寧に語られる。

 自己紹介という名の懺悔を終えて、ひと段落する家族達、しかし、自己紹介をしなかったたか子だけが、彼女達に突きつけるのだ。現実を見ていないという言葉を。一番若い、子どもである娘が一番現実を見ているのか。いや、若い彼女は本当の現実をまだ知らないのではないか。
 場を乱してしまったとたか子は去り、彼女達は今度は、アイドルへのインタビューを模し始める。家族の抱える問題について問われるたびに、三女は言うのだ。適度であればかまわない、自分を責めるなと。その許しを持って、舞台は幕を閉じる。

 彼女達に必要なのは、自分を責めない態度なのか。それとも現実を直視し自分を反省する態度なのか。正しさで測るならば後者なのであろう。しかし、その正しさに彼女達は耐えられるだろうか。アイドルという偶像に夢を見る彼女達に、容赦のない現実は受け入れ難いのではないか。
 彼女達は弱い。ただ、自分の心情を他者に表そうと、ほんの少しだけでも彼女達はもがいた。それだけでも十分なのではないか。その小さな動きは、劇的な解決にはつながらないのだろうけど。
 叶わないであろう夢にすがることで、心をひととき浮き立たせる。普通の弱さを持った普通の人々にできることは、小さなことでしかない。それが現実なのだというほのかな悲哀が、ラストに漂った。

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