(劇評)私に侵入する私

無名劇団『無名稿 侵入者』の劇評です。
2017年6月10日(土)14:00 AI・HALL

 『無名稿 侵入者』は、梅崎春生の『侵入者』を原作とし、中條岳青が脚本を手がけている。演出は島原夏海による。
 『無名稿』シリーズは、大正から昭和初期に書かれた日本の近代文学を再構築して上演するものである。原作が持っていた主題と、現代社会の問題との関連を見いだし、重ね合わせたこの作品は、今、上演される意味を持っている。

 何段かの段差がある舞台を、半円形の座席が取り巻いている。舞台上には柱が立っており、てっぺんに拡声器が二つ付いている。座席と舞台を分けるように、コンクリートブロックがいくつか置かれている。このブロックの穴には、上演中、異なる数字が書かれた標識のような物が立てられていく。

 家を買った女が一人。なんとか手に入れた自分だけの空間で、女はのんびり過ごしたそうである。しかし家には訪問者がある。植木屋、電気屋、家政婦、カメラマン、農家。それぞれが、勝手な理由をつけて、女の家で自分の仕事を行おうとする。当然のごとく反発する女の意見は、理不尽な反論によってなし崩され、家には他者の手が入り込む。ここでの家は、自己を守る堅い殻だろうか。突きつけられる理不尽は望まない変化であろうか。

 女の物語とは別に、男の物語が展開される。男が存在しているのは、第二次世界大戦下のようである。兵曹として任務に就いているが、男は死の恐怖に怯えている。

 女は、私という存在のあやふやさを感じていた。自分の存在を強く認識したかったのであろう。それが叶うのは、死を前にした状況かもしれないと考える。死を忌避し生を求める男とは正反対である。
 ここに、現代世界の持つ歪みが表現されている。世界は豊かになった。しかしその世界は公平とは言えない。不公平さを是正するためになら、何か大きな転覆があっても構わない。私を実感できるならば、そこが極限状態でもかまわない。そんな思想が見える。

 男と女の世界は、男がつけていた一冊の日記を仲介として、入れ替わる。男は生を楽しみ、女は死を目前に生きる。しかし、戦争は終わる。信じていた大きなものは喪失するのだ。喪失の後、空いた穴は何で埋められるのだろうか。空いた穴を埋めるために、人は、必死で生きたはずだ。それが戦後の復興であり、高度成長の原動力となった。激動の時代を経て訪れた不公平な現代では、必死の生は遠いものとなっているのかもしれない。しかし、そのような世界を作ったのは誰か。「私」だ。他者の介入があったとして、それを受け入れたのは私だ。置かれた状況がどうであれ、私を変えてきたものは、私なのだ。

 エレクトロニックな音楽に鮮やかな照明と、演者の動きとの相乗効果で、ラストシーンには高揚する感覚が生まれていた。しかし、ここにたどり着くまでの課程に、わかりやすさ、それこそ観客が女の家に侵入できるかのような気安さがあってもよかったように思う。不明であったものの正体が明らかになっていく流れを作り、ラストの「私」に観客の「私」をより同化させてほしい。

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