(劇評)明かりはある

庭劇団ペニノ『地獄谷温泉 無明ノ宿』の劇評です。
2018年1月13日(土)14:00 オーバード・ホール舞台上特設シアター

 無気力だ。
 庭劇団ペニノ『地獄谷温泉 無明ノ宿』を観に行くにも気が重かった。チケットを取った時にはもちろん楽しみにしていたのだが。ちょうど大雪で列車に遅れもあったので、遅延していなかった新幹線に乗った。乗車はたったの二十数分である。
 そうしてたどり着いて観た芝居は、無気力状態の私を持ち上げてくれるような、高揚感を持つ類いの作品ではなかった。しかしそれに落胆してはいない。あるがままに生きている人々の、なんということのない生き様に宿る生命力。眩しくも煌びやかでもないその、蛍光灯のような在りようは、私の中にしみじみとした明かりを小さく点けた。

 オーバードホールは最大で2196席になる大劇場だ。その舞台上に、セットと階段状の客席が作られる。セットは温泉宿を模している。回転するようになっており、宿の玄関、二階建ての客室、脱衣所、温泉の四室に分かれている。中央は庭になっており、脱衣場へはここから移動する。ひなびた温泉宿を細部まで作り込み、温泉までも具現化してしまったこのセットに、大きな存在感がある。

 そこは北陸の山里にある、名もない小さな温泉宿。村人である老婆の滝子(石川佳代)、湯治に来た盲目の男・松尾(森準人)、近くの温泉に通う二人の芸妓、文枝(久保亜津子)といく(永濱佑子)が訪れている。誰の物でもない旅館だが、三助(飯田一期)がおり、入浴客の世話をしてくれる。
 東京からその宿に、人形師の父子、倉田百福(マメ山田)と一郎(村上聡一)が到着する。手紙で人形劇の依頼を受けたのだが、誰が出したものなのかわからない。帰りのバスもなく、宿に泊まることになった父子は、宿の客人たちと次第に接触していく。

 倉田親子が泊まる部屋には、長らく湯治に来ている盲目の松尾がいる。倉田百福は小人症で子どものような背格好なのだが、松尾には初めわからない。その息子である一郎は小人症ではないこともわからない。見えないからこそ、見たくなる。そこにあるものが何なのか、知りたくなる。
 目が見えないならば、心眼が開かないかと語る彼に、百福は「心眼で何が見たいの」と問う。具体的に何が見たいわけではないのだ。ただ、視力を持たない自分の哀れさを打ち消すために、別の力が欲しいのだ。松尾は語る。ここが「無明の宿」と呼ばれていたことを。無明とは仏教用語で、根源的な無知のことを表す。

 宴席から酔っ払って帰ってきた文枝といくは、人形芝居が見たいとせがむ。仕方なく、倉田親子は準備をし芝居を始める。人形芝居を見た後、文枝は「怖かった」と滝子に話す。芝居の最中、滝子はいくを見ていた。いくは人形芝居から目をそらしてはいなかった。決して愛らしくない人形を、子どものように扱う百福と、その様子に特段の反応を示さず、淡々と三線を演奏する、百福の本当の子どもである一郎。わかりやすい親子愛は、そこにはない。それでも二人は長い時間を共に過ごし、その間に、他人がおいそれとは覗けない情をまとわせている。その人形芝居を、三助も見ていた。

 真夜中、脱衣場で三助といくが性行為に及ぶ。他の人々にも聞こえるであろう、いくの大きなあえぎ声は、快楽の結果漏れたものではなく、意図して噴出させている決意のように聞こえた。子どもを作るのだという、強い表明である。新幹線建設のために消えゆく運命にある古びた宿でも、生のための行為が営まれている。例えその場が変わってしまっても、消えてしまっても、生のために人は性を現し、生をつなげていこうとする。

 百福と一郎、彼ら自身では持たないように思える性と生は、人形に凝縮されているのだ。人形芝居の場に居合わせて、松尾は吐く。見えないはずの人形芝居を、彼は心眼で見たのかもしれない。見えないからこそ、そこで繰り広げらる光景に思いをはせた。その興味が深過ぎて、見てはならない部分を見てしまったのかもしれない。倉田親子がその人形に長年込めてきた念が、闇として松尾の視界に広がったのかもしれない。それも圧倒的な生の力であろう。気軽に覗いてはいけなかった。生にしがみつこうとする人の業は深く、暗く、底がない。
 その後松尾が宿を離れたのは、光を取り戻すことを諦めたのではないと思いたい。闇の中でも生きていけるしたたかさに打たれたのだと思いたい。

 無気力だ。先が見えない。どこへ進めばいいのかわからない。私は無明にいるのか。
 しかしそう気づいた今から、全くの無知ではなくなった。明かりを探そう。光があったとして、苦悩は簡単に消えはしないけれど。業を背負ったそのままで、当たり前に生きよう。彼らのように。

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