(劇評)日常を少しだけ動かす

coffeeジョキャニーニャ『再演 日高シマトの鬱屈 ヒキオタニートは魔法少女のラジオを聞くか』の劇評です。
2017年9月22日(金)21:00 金沢市民芸術村 PIT2 ドラマ工房

 coffeeジョキャニーニャによる、第二十一次ジョキャニーニャ内閣(とは、21公演目の意味である)『再演 日高シマトの鬱屈 ヒキオタニートは魔法少女のラジオを聞くか』(作・新津孝太 演出・GSI)は、10年ほど前に上演された作品の再演である。私は初演を観ていないが、最近のジョキャニーニャの作品と比較して、劇団の変化と深化を感じさせられた。

 タイトルは、初演当時流行していたアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』、サブタイトルは小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のパロディである。突然現れた女性に振り回される男の話、というざっくりしたあらすじの類似の他、ちょっとした引用がいろいろとあり、気づいた人はニヤニヤできる仕様になっているそうだ。だが、どちらも未見の私でも楽しめた。セリフ、役者間のやりとり、動き、その間など、ちょこちょこと笑わせに来てくれていた。

 舞台は、アパートの一室を模している。上手奥にベッドが、中央にテーブルがある。上手下手の両手前にはノートパソコンが置かれている。壁にはアニメのポスターが数枚貼られている。床には衣類が散乱している。そこは主人公、日高シマト(間宮一輝)がひきこもっている、駄目な感じのオタク部屋である。シマトは働いておらず、昼間は寝ている。生きる気力はあまりない。夜中に大好きなネットラジオ『魔法少女プリティマミー』を聞くことが、唯一の趣味だ。テンションが上がり過ぎて、深夜におたけびをあげて隣人・梼原香美(島上かんな)から注意を受けたりしている。そこに、シマトの兄、久万秋(中里和寛)が、悪魔召喚士になる修行から帰ってくる。久万秋は事実、悪魔・大月(佐々木具視)を召喚できるものの、その能力を活かせず働いていない。
 梼原香美は、超ツンデレである。シマトに好意を寄せているが、それを素直に伝えられない。心の友達らしき存在、妖精(岡崎裕亮)のアドバイスを受け、香味はシマトと無理矢理恋人同士になる。しかし、香美の上司・ナハリ(中山優子)はそれをとがめる。香美には秘密があった。

 シマト唯一の楽しみである『魔法少女プリティマミー』の放送が、マミーの不調のためすぐに終わってしまう。その後、マミーファンの一人・ゴルゴンゾーマ(仁野芙海/近江亮哉)が消息を絶つ。ファン仲間のライカケンタ(中谷匡秀)とトカチツクチテ(宮澤鴻希)から情報を得て、シマトと久万秋は、残されたメッセージを頼りに、謎に向かう。
 そこには世界を揺るがす大きな事象が隠されていた。シマト達は生命の危機に瀕する。生きる気力を失っていたシマトでも、死を目の前にすると怯え、生のために何かをなそうとする。

 なぜ、「魔法少女」だったのか。それは、オタクを描く物語であるからであろう。だがそれだけではない。魔法少女プリティマミーは、信じる人の心に現れる。信じればこそ見えてくるものがある。奇跡も、魔法も、そこにあるのだと、ジョキャニーニャはこの劇中だけでも思わせてくれたのではないだろうか。

 魔法ということで言えばもう一点ある。当日パンフレットでは脚本の新津孝太によって、深夜ラジオの思い出が語られている。静かな深夜に一人でひっそりと聞くラジオ、しかしリスナーが他にも、どこかで自分と同じようにラジオを聞いていることが伝わってくる。この不確かでゆるい連帯感を持てる時間は、朝になったら消えてしまう、魔法の時間だろう。

 あらすじに書き尽くせない位に多い情報のうちのいくつかが、伏線としてラストにきちんと回収されていき、物語として納得がいく。あれもこれも盛り込み過ぎといえばそのようにも感じるが、これは必要な時間だったのだろう。この出来事を経て、シマトは変わったか。あまり変わっていない。ただ、ほんの少し、自分から動こうとした。それだけのことだ。それだけのために、2時間を超える物語が語られた。ほんの少し動かすことの大変さ、そのほんの少し動いたことの重要さがそこに見えた。

 10年経って同じ演目を上演できる、劇団としての持続力。アレンジが施されているであろうが、10年前の戯曲が現在でも通用するという実力。それらに感心するとともに、ジョキャニーニャの最近の戯曲が、初期の頃より先鋭化してきているのではないか、常識の枠から、よりはみ出ようとしているのではないかと感じさせられた。

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