(劇評)個と全体、その関係を描き出す緻密

劇団新人類人猿『REPT』の劇評です。
2017年9月17日(日)19:00 金沢21世紀美術館シアター21

 女性の歩みは極めて遅い。一歩、一歩、つま先から足の後ろまで、そこに床が存在することを確認するかのように、じんわりと彼女は動く。彼女は一言も発しない。音楽も鳴らない。遅い速度と静寂は、何らかの展開を期待して観ているこちらに不安を起こすのである。初めは。

 舞台は、板張りの黒い床である。これはシアター21の床そのままだ。シアター21は、真っ白な金沢21世紀美術館の中にあって、ただ一カ所、黒い部屋として存在している。この地下の暗闇の中、劇団新人類人猿が上演した『REPT』(構成 演出 若山知良)は、宮沢賢治の『春と修羅』を題材としている。

 上手、下手の両後方部には、鉄パイプらしきもので正方形の足場が組まれている。それらは3階建てで、パイプがはしご状に付けられており、上に登れるようになっている。舞台中程より少し後ろの両側には扉がある。扉は開いたままだ。上手側から、最初に女性が登場した。女性がいくらか歩みを進めたところで、上手からは2人が、下手からは3人が登場してくる。彼らは足場へと移動し、6人はそれぞれ足場の一区画に入り込む。

 彼らが足場の中にいる間も、言葉は少なく、動きは遅い。しかし、演者の一人を見ている間に、別の演者はその姿勢を変えている。やがて足場から出た演者達のうち、後方にいた3人が、暗がりの中から傘を手に入れていた。傘は、傘を持たない3人に手渡される。じっと見ているはずなのに、いつの間にか様相は変わっている。個を見ていると全体を把握できず、全体を俯瞰しようとすると個の動きを見落とす。

 下手の足場に一人残った男性を除いて、5人は、舞台中央に集まる。誰かが手を伸ばす。それに覆い被さる勢いで、別の誰かが体を動かす。また別の誰かがその身を被せる。「私は」「俺は」「私は」「俺は」問いかけが繰り返される。「修羅」なのだと、誰かが言う。彼らの背景に映し出されているのは、明滅する光の点。拡大されていくそれは『春と修羅』の一文である。雨が降るように流れ落ちる文章は、文字に別れて乱れていく。私達の共通理解を促す言葉が、ばらばらになってしまう。それは絶望なのかもしれない。

 舞台の終盤、空を見上げ両手で顔を覆う女性が表した感情は、絶望への嘆きだろうか。入り乱れ混沌とした人々の有様への嘆きだろうか。嘆く女性の背後では、中央後部の扉が少しづつ開いていく。漏れ出す光、そこにあるのは宇宙だった。混沌とした宇宙の中から生まれた星は、一つの集合体という秩序である。
 伝えたいことは、届けたいことは、シンプルなものなのだ。ただ一つを届けるために、緻密な過程としての表現がある。演者、舞台装置(舞監 ta96)、照明(宮向隆)、音響(中山聡子)、写真(野田啓)、それぞれの個が持つ美しさと、それらが一体になった美しさとが同時に存在している。それはパンフレットに書かれた「<わたくし>は、宇宙の一部であると同時に、宇宙そのものである、と語りかけて来ているように思います」という言葉が具現化されたものだろう。
 
 白の中にある黒の空間で演じられることが、最適である題材だと感じた。暗闇を宇宙になぞらえ、そこに一筋の光を招き入れようとしている。シアター21の扉の位置や高い天井など、空間を有意義に使って、新人類人猿の宇宙が展開されていた。

 観始めた最初には不安を覚えた、遅い動作と静けさ。たっぷりと時間をかけてなされるその動きが、実は、多くの情報を内に秘めたものであることにだんだんと気づいていく。研ぎ澄まされた静けさという環境を人為的に作り出してくれることの貴重さに気づく。終わりを迎えてしまうと、新人類人猿が、時間をかけて織りなしていくその豊穣な意味を持った世界から、離れがたく感じるようになっている。

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