(劇評)先に行って、待っている

ハイバイ『ヒッキー・ソトニデテミターノ』の劇評です。
上演から時間が経ちすぎていますが、載せておきます。
2018年3月10日(土)14:00 アイホール

 学びも働きもしていなかった頃が私にはある。外に出ることはあったが、ほぼひきこもりだったと言ってもいいだろう。過去形で書いてはいるが、今もしょっちゅう家に閉じこもりたくなる。ひきこもり精神にはあまり変わりがない。それでも今は、このような文章を書くようになったくらいには、社会との接点を得られている。そうさせてくれた理由の一つに、演劇がある。演劇を観たいと思う心が、私を外へと誘った。
 この体験を持って観た『ヒッキー・ソトニデテミターノ』で描かれる「ひきこもり」は、似た状況にいただけに、時折心の傷に染みた。登場人物達の気持ちや行動がよくわかることもあれば、わからないこともあった。ひきこもる理由も、外に出る理由も、ひとつではないのだから。

 鈴木太郎(田村健太郎)は長らくひきこもっている。父(平原テツ)と母(能島瑞穂)は太郎の言動にすっかり怯え、彼を怒らせないようにひっそりと暮らしている。この状態をなんとかしようと両親は、ひきこもり経験者が集団生活している寮へと、相談に出向く。
 寮にて働いている黒木(チャン・リーメイ)と、森田富美男(岩井秀人)は、太郎の家庭を訪ねる。森田もまた、ひきこもりを経験した者だった。太郎は兵糧攻めを経て、寮にて生活をすることとなる。
 
 寮にはひきこもりのベテラン(高橋周平)がいた。彼の言うことは理解しがたいが、時々鋭く現実を突いてもくる。同じく寮に暮らす斉藤和夫(古舘寬治)は、道を尋ねられた時の受け答えを練習したり、カフェで気取ったメニューを注文するためのシミュレーションをしたりしていた。彼にとっては、外は練習しなければ出ていけないような、怖いものでしかない。
 外に出ることは、幸福の可能性を上げることだと、森田は話していた。しかし外では何が起こるかわからない。同時に不幸になる可能性も上げてしまう。それでも、外に出るのは何故だろう。出なければいけないのは何故だろう。どうすれば外に出られるのだろう。舞台上でもそのことが問われる。ベテラン寮生は、自分を拡散させて生きていけるかどうかは「センス」だと言う。外に出て、多くの幸福や不幸に自分を対峙させていけるかどうかは「センス」としか言い様がないのかもしれない。

 森田はどうして、外に出たのか。彼はプロレスが観たかったのだ。欲望は強い。したいという思いは他の、したくないという思いをねじ伏せることができる。
 みちのくプロレスが街にやってきたと、森田の妹、綾(藤谷理子)が森田に教えた。会場への道を急ぎながら、彼女は叫ぶ。「先に行ってまっせー!」と。それが、とても優しい言葉だと感じられた。きっと兄は来てくれるのだと、来ることができるのだと、信じて待つ態度からの言葉だ。一人では行けないかもしれない。でもそこに、ちょっとだけ先にそこにたどり着いた先輩が待っていてくれるのなら。ほんの少しだけでも、心の重さは減る。理解者がいることも、強さの一つになる。

 かつての自分に似た未熟な存在に向けて、少し離れた場所から呼びかけるような優しさがこの芝居にはあった。ここまで来てくれたら、何か変わるかもしれないと。ここまではなんとかして出てきてみないかと。演劇は、先に行って待っているものになれる。

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