(劇評)全ての欲は生きるためにあるのだけれど

イキウメ『天の敵』の劇評です。
2017年6月11日(日)13:00 ABCホール

 食べなければ生きていけない。それを疑ってみる人がいる。毎日三食もいらないのではないか?たくさんの種類を食べなくてもいいのではないか?それだけ食べれば済む、完全食というものがあるのではないか?いや、食べなくてもエネルギーは補給できるのではないか?

 『天の敵』は、食欲を離れ、しかし健康であること、若くあること、長く生きることへの欲求に囚われた人物を中心として、人間のもつ欲望の果てしの無さ、その恐ろしさを露わにした作品である。

 キッチンアトリエと称される舞台には、背後の壁一面に巨大な棚が設置されている。棚にはおびただしい数の大小様々な瓶が、研究室か漢方薬局店かといった様子で並べられている。真ん中に大きなテーブルがある。下手には冷蔵庫や棚、水道設備があり、上手はソファやハンガーラックなどが置かれたリビングスペースになっている。
 物語はテレビ番組『3秒クッキング』の収録風景から始まる。菜食の料理家、橋本和夫(浜田信也)は、自身の信念に基づいて、お昼の料理番組には似つかわしくない、料理において一般的とはされていない意見を率直に語る。

 ジャーナリストの寺泊満(安井順平)は、橋本を取材に来ていた。満の妻、優子(太田緑ロランス)が、橋本の料理教室に通っているのだ。その理由は、難病を抱えた満を、食餌療法で回復させたいがためである。橋本について調べていた満は、戦前に食餌療法を提唱していた医師、長谷川卯太郎(松澤傑)のことを知る。橋本と長谷川には何か関係があるのではないか。インタビューを続ける満に、橋本は告白する。自分が長谷川卯太郎本人であり、現在122歳であると。彼は語り出す。自分がなぜ食餌療法を学びはじめたのか、そしてその結果、何を見つけたのか。どうやって122年もの時を過ごしてきたのか。

 食べる、という誰もが必ず向き合っている題材を見せられることで、自分の食へのこだわりが思い起こされ、興味を刺激される。また、物語などでよく知られたとある存在を、主人公に重ね合わせることで、突飛にも見える設定に入り込みやすくなっている。でたらめな話と、ぎりぎり信用できるかもしれないリアリティを持った話、その間のきわどい領域を描きだすことに成功している。

 生きる、というのは基本的な欲求であり、誰もが無意識で持っている根源的な感覚であると思っていた。その欲求は、いずれ終わりを迎える時には、自然に薄れていくものだと思っていた。
 しかし、人はよりよく生きるために、様々な技術を進めすぎてしまったのかもしれない。発見され、一度人間に必要とされてしまった技術は消えることができない。後でその威力の及ぼすところの、本性に気づいたとしてもである。
 健康で、長く生きられるようになった世界で、人はよりよい人生への欲求を募らせていく。生死という、人にはコントロールのできなかった領域にまで、平気で踏み込んでいく。一握りの人間によって踏み込まれた地が、どれだけ荒れるのかを考えもせずに。人間は、欲し過ぎてしまっている。

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