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(劇評)強い気持ち、強い憎しみ

百景社「金沢ナイトミュージアム BUNGAKU Night 宮沢賢治 『土神と狐』」の劇評です。
2018年8月3日(金)19:00 金沢くらしの博物館

 宮沢賢治の『土神と狐』を百景社が上演した(演出:志賀亮史)。リーディング公演であり、役者達はテキストを持ってはいるが、そのテキストすら小道具のようで、台詞を覚えて行う通常の公演のような趣きであった。
 この公演は二日間、場所を変えて上演された。私が観たのは金沢くらしの博物館の室内であったが、翌日は中村記念美術館で、庭園を借景として上演されたという。場所によってかなり印象が異なったのではないか。
 金沢くらしの博物館での上演場所は、板張りの、学校の教室を模した部屋だ。壁面に黒板がある。教壇に置かれた教卓には、木の枝が付いた楽譜立てが置かれ、その下部には白い帽子が引っかけられている。教壇の前には、上手と下手に学習机と椅子が1組ずつ、客席側に向かって置かれている。チャイムが鳴り、教室に入ってきた女性(鬼頭愛)は、テキストを手に話しだす。教師が生徒に語りかけるかのように。

 『土神と狐』に登場するのは、樺の木(鬼頭愛)、土神(国末武)、狐(山本晃子)である。樺の木を想う、土神と狐。二者は互いをよく思ってはおらず、三者の関係は危うく展開していく。
 土神は荒々しく身なりが汚いが正直者。もじゃもじゃのパーマ頭。黒いシャツとショートパンツの上に、ストライプの長いシャツを羽織っている。足は裸足だ。後ろ姿から見るとシャツだけしか羽織っていない人のようである。
 狐は上品でお洒落だが嘘つき。茶色の帽子、白いシャツ、黄土色で丈が短めのワイドパンツの上に、ベージュのショートコートを羽織り、赤い長靴を履き、赤の水玉模様のトランクを持ち歩いている。
 水色に花柄のツーピースを着た樺の木は、時折白い帽子をかぶる。樺の木はどちらかといえば、人当たりのよい狐の方を好んでいる。

 樺の木は普通に話すが、狐はラップ調で話す。インテリ風の狐が話す星の説明などが、独特のテンポでさらさらと流れていく。対称的に、土神は一語一語の語尾を伸ばして話す。ゆっくり過ぎて言葉としての意味が取りづらくなるほどだ。土神との対話の際には、その語りの遅さに困るのか、樺の木の喋り方は少し早口になってしまう。

 土神の中では、樺の木への想いと、樺の木と楽しげに話す狐への嫉妬が入り交ざり、狐に対する憎しみが、強く渦巻いていく。
 実は、嫌いという気持ちの方が、好きな気持ちより強いのかもしれない。嫌いだから考えたくないのに、いつのまにか考えてしまう。嫌いな気持ちを排除するためには、かなりのエネルギーが必要となる。土神も嫌悪の感情を押さえようとはするのだ。神である自らを諫めて。しかし、ライバルのちょっとした動作が土神の怒りを呼び覚まし、蓄積されたエネルギーは行動へと現れる。

 それまでは、土神のコミカルな動作や、土神の祠にやってきた木樵と土神の一人二役(ここでは『北の国から』の音楽が流れ、木樵は田中邦衛を彷彿とさせる)に、笑いも起きる雰囲気だった。
 だが、終盤の展開はドラマチックであった。それを強くしたのが、BGMの力だ。鬼束ちひろの『月光』や、手嶌葵の『テルーの唄』など、歌詞のある歌を使用していたが、これが違和感なく馴染む。現代の歌がはまるのは、宮沢賢治の世界感を、現代の私達が観やすく理解しやすい形として持ってくることに成功しているということだ。

 狐のトランクの中に閉じ込められていたのは、嫉妬や、嘘つきの自分を卑下する気持ち、それらを覆い隠そうとした知識の数々だ。土神は涙する。狐も、土神と同様の醜い感情を持っていた。嫌いは好きよりきっと強い。強いがゆえに、その気持ちは苦しく、悲しい。

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