(劇評)嘘みたいなんですけど

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション の劇評です。
2018年2月17日(土)13:00 愛知県芸術劇場小ホール

 誰かによって語られる、誰かの話。舞台上で語られる物語の中心は、ある男女が過ごした、三月の5日間の出来事だ。出来事と言っても、大事件が起こったわけではない。彼らは六本木のライブハウスで出会い、渋谷のラブホテルに行き、4泊5日で主にセックスをした。そんな5日間、本当にあるんだろうか。

 物語の主となっている、ラブホテルの二人、ミノベとユッキーの話題の合間に、ミノベの友人アズマと映画館で出会うミッフィーの話題、反戦デモに参加するヤスイとイシハラの話題が混じる。

 5日間を信じがたい理由は、その語られ方にある。その5日間の出来事は、本人ではなく、他人によって話される。そしてその語り口は、演劇の当たり前を無視している。
 日常において大体の人は、理路整然と話してはいない。話し言葉には、えー、それで、そうなんですけど、ということで、やっぱり、といった単語がふんだんに挟まれる。この冗長で、思いついたままの話し方で、登場人物たちは話すのだ。

 普段聞いているはず、慣れているはずの話し方が、舞台の上でなされている。舞台の言葉はよく作られた言葉だという思い込みのある頭は、その発話方式を異なるものとして受け取ってしまう。意味の詰まったよくできた語りではなく、半分以上は意味をなさない単語が占める語り。どちらがリアルかといえば、普段話されている後者の方なのだ。なのに。リアルであるはずの発話に違和感を抱いてしまう。それは翻って、舞台上のリアルとは何か、を考えさせる。

 そしてその語りが伝聞であることも、リアリティを得難い理由の一つだろう。話される出来事は、他人事なのだ。男女が出会っても。その間にイラクで戦争が始まっても。男女が別れても。その間に戦争が終わらなくても。どれも自分が体験した話ではないのだ。

 らしい、だそうだ、みたい、なんじゃない? 自分自身の体験ではない話題だけが、一人歩きしていく。そしてそれは自分の身を持って体験したことではないから、どこか現実味を欠いている。しかしその薄まった現実こそが、私達の現実になっているのではないか。
 
 六本木のライブで出会うことを期待していたアズマとミッフィーは、出会えない。
 なんとなく反戦デモに参加していたヤスイとイシハラは、近隣住民から苦情を受ける。
 5日間を過ごして、ユッキーの目に少しばかり新鮮に見えた渋谷の街も、路上で排泄するホームレスの姿を見たことで、嘘のように消えてしまう。いつもの、渋谷に戻る。
 新鮮な非日常も、いつかは薄れ、通常通りに進行する。嘘みたいな5日間は、嘘みたいだからこそ、心の奥にひっかかり続ける。

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