(劇評)『劇処』女達が繋ぐ血

この文章は、2016年10月8日(土)19:00開演の演劇ユニットK-CAT『血の婚礼』についての劇評です。

 スペインの詩人、劇作家、ガルシーア・ロルカの『血の婚礼』(訳:牛島信明)を、K-CATが、ドラマリーディングの形で上演した。演出は文学座の西川信廣、音楽は上田亨によるキーボードの生演奏である。

 夫と息子を殺された女は、その苦しみを決して忘れることができない。もう一人の息子がナイフを手にすることすら、嫌悪するほどに。ナイフで二人は殺されてしまったからだ。女の憎しみは、夫達を殺した者だけではなく、ナイフという武器を生み出した男性という種全体にまで及んでいるかのようだ。

 年頃になった息子は、ある娘との結婚を望んでいる。しかしその娘には、かつて交際していた男がいた。その男の一族の者が、女の夫と息子を殺したという因縁がある。男は現在、娘の従姉妹と結婚して子どももいる。そんな曰く付きの娘と息子の結婚に、女は気が進まないながらも、認めることとなる。 しかし、女の勘は悲しいかな、的中してしまう。男と娘は、互いを思う気持ちを捨てきれてはいなかった。

 半円状に並べられた6つの長椅子。そこに17人の演者達が全員座る。それぞれの登場の場面になると、立ち上がって中央に出る。下手の柱の影では、キーボードの生演奏が行われる。リーディング公演なので、皆、本を読んでいるのだが、顔が本に向けられたままの話者が多く、こちら側へ台詞が届きにくいように感じられた。

 俳優は皆、金沢弁を使って話すのだが、ここで、統一された金沢弁指導はあったのだろうか。人によっては古い言葉使いをする者もあり、耳慣れた言葉遣いの者もあった。その個人差は年齢などのキャラクターの個性なのかもしれないが、統一性の無さに違和感が残った。
 金沢弁という、金沢に暮らす者には身近な言葉を使われたことで、感情的な言葉がより強い口調で伝わってきた。ただ、そうやって観客の感情を波立たせることが目的での、方言の使用だったのだろうか。そのままでは伝わりづらい古い言葉を、馴染みのある言葉に置き換えることで、物語への導入を容易にしようとしたのではないか。もし、その試みを取ろうとしたのであれば、言葉の一部を方言に置き換える程度ではない、もっと大胆な意訳がなされてもよかったと思える。男と娘が互いの気持ちを打ち明けあうシーンなど、金沢弁が追いついていない場面もあったからだ。

 結婚式の日に男と逃げた娘は、一人、女の元に戻ることになる。ここで彼女がしつこいくらいに主張するのが、自分は純潔であるということである。自分は息子を裏切った。だが自分の身を汚すことはしなかったと。結婚は、自分達だけのものではなく、家と家を繋ぐ重要な契約でもあった。そして、一人の女性として、その身を男性に捧げることにも重要性がある。自分は、その行為の重さを弁えている普通の女性だと、娘は他の女達に知らしめたかったのであろう。一般的な女性像から外れ、周囲から軽蔑の目を向けられることは何より恐しいことだろう。地域社会の女達という、狭い集団の空気の中では。

 男達が消え、女達が次々と集まってくる静かなラストシーンは、言葉すら出てこない悲しみを、言葉になる前の抑圧された力を表現していたのであろう。男性はいつも何かを奪うばかりだ。女達は血を流しながら子を産み、育て、時にはその子を奪われる。その身を痛めながら繋いできた血の力は、強い。

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