(劇評)存在しなかった本、ありえなかった事実

Coffeeジョキャニーニャ『カディクスの偽書』の劇評です。
2017年6月17日(土)15:00 金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房

 『カディクスの偽書』という書名、「グラハム・S・アーヴァイン」という原作者名、「山縣廿楽」という訳者名を、公演前に検索した。それらは見つかった。ただし、coffeeジョキャニーニャの公演情報としてのみである。つまりは、『カディクスの偽書』という本は存在しない。だが、coffeeジョキャニーニャがそれらを創作して演劇作品にしたことによって、作品内にその本は存在する。そして、『カディクスの偽書』が本当に存在するのかどうか疑わない人の中では、その本は存在しているのだ。それは「ある」のか「ない」のか。どんな情報があれば「ある」は成立するのか。

 『カディクスの偽書』のリーディング公演、と銘打った本公演は、実は純粋なリーディング公演でもない。
 2脚の、背もたれがあるクラシックな椅子が置かれた舞台に、まず登場した男(オオタ・中里和寛)は、リーディングとは何か? を懇切丁寧に説明してくれる。それが長い。リーディングはなかなか始まらない。その理由は、出演者が遅れているためである。やってきたもう一人の男(トム・佐々木具視)は、寝坊したらしい。二人が揃うも、他の出演者も遅れているようだ。舞台の下手に置かれていた衝立が動かされると、そこには女(ユウコ・中山優子)が座っている。さらに上手の衝立の後ろにも女(ユカッチ・冨優香子)が座っており、リーディングは始まる。

 舞台は19世紀半ばのカンザス・シティ。混血の青年ホドケン(オオタ)の不幸が語られる。彼は突然、家庭教師の職を解かれ、しかも恋人にも去られてしまう。どうやら始まりつつある戦争と、ホドケンの雇い主であったアンナカ(トム)が読んだ本が、彼の境遇を左右したらしい。アンナカの娘ハル(ユカッチ)が問題の本『カディクスの偽書』をホドケンに渡したのだ。

 わかりやすいアメリカ人的オーバーアクションと口調で、リーディングは続けられるが、途中途中で、出演者によってストップがかかる。オオタは、トムとユウコが揃って寝坊してきたことに不信感を抱いている。二人は一緒にいたのではないか? それはユカッチも巻き込み、男女の問題として混沌と『カディクスの偽書』の物語と混ざり合う。今どっちの話をしているんだろう、という混乱に観客は巻き込まれていく。

 憶測すればきりがなく、事実だと認めてしまえば詮索のしようがない。「ある」と言えばあるし、「ない」と言えばない。納得してしまえばどちらでもいい、のかもしれない。一応納得がいったようなラストには、少々物足りなさを覚えつつ、「ある」「ない」の言い合いを続けていても、収まらないものではあると思わせられた。

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