(劇評)小さな世界の中の触れられない領域

第七劇場「オイディプス」の劇評です。6/11(土)夜鑑賞。


 金沢21世紀美術館シアター21にて、第七劇場による「オイディプス」を鑑賞する。ギリシア悲劇「オイディプス王」は、父を殺し、母と交わるという罪から逃れようとするも、その罪を犯す運命から逃れられなかったオイディプスの物語である。

 黒いシアターの中、舞台は白い床になっている。左右と奥には腰ほどの高さの白い台が4つ置かれ、その上には抽象的なオブジェがある。舞台上手には茶色いテーブルに、椅子が3脚。奥のほうにはもう一つ椅子があり、開演前から、そこに腰掛けている女性はまるで展示室の監視員のようである。そう、舞台は美術館の中で美術館を模している。監視員のような女性の他には3人の女性が、オブジェを鑑賞している。彼女らはゆっくりと観客を場面へ導入する。監視員のような女性が照明を制御して、暗闇が訪れる。

 暗闇が開けると、両手で両目を覆った登場人物達が存在する。その中心にいるのはオイディプス。彼を取り囲む5人は、徐々にオイディプスへと干渉を始める。最初は手足を伸ばすだけ、しかし彼にのしかかっていく者も現れる。周囲からの干渉は、オイディプスが受ける運命であり、報いであり、罪であろう。

 開演前からオブジェを見ていた3人の女性はコロスとなる。コロスとは、ギリシア劇において、解説の役割を担う俳優である。監視員らしき女性は預言者となる。実際の美術館の監視員は、ただずっとだまって監視を続けており、決して自分から説明を加えることはしない。その監視員=預言者の言葉が必要とされるのは、展示室内=世界に異変が生じた時である。

 あらすじが知られているギリシア悲劇を、今、この時代に引き付けるために、様々な手段が用いられていた。例えば、場面転換の際には暗転し、ノイズ音が流れる。このノイズ音はただ単にうるさいとする人もあるが、緊張がほぐれるとした人も4割あると、アフタートークで主催の鳴海康平が述べていた。時には長い無言の時間も続き、演技から緊張感を起こされる場面も多々ある。その緊張を一瞬緩め、物語に没頭し過ぎないようにする役割を、ノイズは担っていたのではないか。

 そして暗転の効果である。はじめは、回数が多いとだけ思っていた暗転だが、この強制的な場面の切り替えが、オイディプスの罪が明らかになる場面を強く印象付けた。短い間隔で行われる暗転、それはカメラのシャッターを切るようである。長大なオイディプスの罪を分解してみせようとするかのように。しかし、いくら細分化しても罪は確固として揺るがないことが、証明されるように思えた。

 オイディプスの罪はどこから生まれたのか。預言からだろうか。その預言を現実の物にしまいと彼は画策するが、運命は数奇に預言へと寄り添っていった。オイディプスの罪はどこから生まれたのか。預言を変えられると考えたからだろうか。人の力の及ばない領域は、今も、例えば展示室のような小さな世界の中にも、存在している。その領域に取り込まれてしまわないように、手を触れてはならない。しかし人は手を伸ばしたくなってしまうのであろう。そこに魅力的な美術品があるように。

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