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懐かしい曲を聴いて思い出したこと

もうずっと聴いていなかった曲を久しぶりに聴いて考えたこと。

寝る間も、ごはんもまともに食べれない生活の中で、
自分がまるで成長してないと、ふと感じる虚無感。
頑張って先に何もないのではないかという不安感。
まともな生活しているとは思えない日常。
夜毎、幸せの在処を探して苦しんでいた。


出社は夜明けごろ、帰宅は終電後になることも多々

当時、といってもたった7年前。
ちょうどスタジオマンをしていた頃の話だ。
アシスタントなので、下積み時代ですね。
私が勤めていたスタジオは雑誌や広告の写真撮影がほとんどのスタジオで、
新人の頃は特に何やってもダメで、怒られ続けて、
六本木からの帰りに道、いつも泣いていた。
ベテランになったらなったで、スタジオ運営や新人教育、現場を回すことで
毎日全力疾走していた。
恋愛に関しても全くダメで、
腐れ縁の飲み友達となあなあに付き合うばかりで、
結局20代は”彼”というものを作ることなく終わった。

酒飲んで、クレーンゲームやって、それはまさに青春であった。

その時はいつも命を削って、心の涙を流して生きていた。
この出口はどこなのと思いながら。
いつも苦しかった。
どれだけ頑張ってもまだまだ足りないと思っていた。
私は何者にもなれず、誰にも愛されることなく死んでいくんだ。


でも、今思うと、そこには”切実さ”があった。
がむしゃらだった。

たった7年ぐらいで、私はすっかり”満たされた人間”に成り下がってしまった。
毎朝を楽しみにして、夜を迎えたことを祝福するような、
大概のことはなんとかなると自信があり、
緊張で吐きそうになることなんてない。
人生を思って涙を流すこともない。
いつの間にか、写真も変わっていた。

それでいいと思っていた。
でも、当時を思い出させる唄を聴いて気づいた。

現状に満たされるのは精神衛生上いいことかもしれないが、
現状に満足するのは違うのではないか。
何まるくなってんだよ。

確かに、私は欲しいものを今手にしている。
20代を捧げたようにつるんでいた友達と歳をとっても共に生きると信じれるようになり、
思うままに写真を探究し、無理のない穏やかな生活。

でもそれが”緩やかな現状維持”になっているのでは。

写真の姿を露わにしたいならば、自分を追い込んでツラ合わせなきゃ、
本質は見えてこないって、

攻めなかったら、本物になれないって。
今、誰かに責めてもらえる環境ではないなら、
自分で自分を追い込んでいけ。

切実な全力で向き合って。

そんなことを思いたした。


たった数年前の私が生きた全力を無碍にしない今を過ごしていく。

悲しみと後悔の先でまた会おう、
ひどい顔で笑おうって、superbeaverが歌ってくれてたな。

責めて、攻めて行こうぜ。

共に戦った友人に恥じぬように、進め。

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