【1989年100日旅】56日目。イナリ
1989年5月31日は旅の56日目。母が寝台列車の中で小学校の先生と知り合い、学校の終業式に誘ってもらった。6月1日から夏休みと聞いて、「この寒さで⁈」と驚いた。
終業式は村のお祭り的に、地域住民も参加するらしかった。マリンブルーと鮮やかな赤の美しい民族衣装を着たサーミ人と、歌や踊り、アコーディオンの演奏を楽しんだ。寝台列車の子供ギャングはここの学校に通っていた。
つい最近知ったのだけれど、それまで虐げられ、軽んじられてきたサーミ人の、民族文化復興が北欧全体で80年代に起こっていたらしい。
午後はユースの管理人の娘とその弟が誘ってくれたので森の中へ。発音が難しかったのか、その子たちの名前をメモしていないのが悔やまれる。私の妹と弟がなぜ来なかったのかは覚えていないけれど、三人だけで出かけた。当時の私は英会話教室に通っているわけでもなく、知っている言葉といえば、日本でカタカナ語として使っているような英単語だけ。なのに、なぜか二人と会話ができた。
二人は、周りの大人には内緒で作っている、木を円錐形に組んだテントに案内してくれた。トナカイの皮を巻けば完成だ、上部にできる穴は神様と通じる大切なものだと教えてくれた後、トナカイの頭蓋骨が落ち、枯れ木が立つ荒れ野へ。白い空が映る黒いイナリ湖面と、湖を囲む峻厳な木々が見える。管理人の娘が3年前にこの湖で男の子が溺れ、別世界へ行ったのだと淡々と教えてくれた。厳しい自然と神話世界を引き受けている雰囲気。思い返すと彼岸を覗いたような気持ちになる。
三人でユースに戻り、湖を見ながら教えてくれた話を双方の親を通じて確認するも、理解は間違っていなかった。その後、管理人の娘にサーミ人の歌を歌ってもらう。父は貴重な資料だと喜び、テープに録った。父と私はこの歌を今でも歌える。意味は一切わからないけれど「サーミ」という言葉が入っている歌。
夕食は木こりとグリンピースの人と。母は、グリンピースの人に捕鯨について詰められるのでは、と身構えたらしいけれど、和やかな夕食だった。何を食べたかは覚えていない。木こりのおじさんは肉食だったと思う。彼はソ連で働いてるらしかった。「軟弱なロシア人は、冬には木が切れない。俺たちは氷点下60度に慣れている」と豪語していた。
周りはまだ明るくても、時間は遅いので就寝。夜中に目が覚める。午前2時。窓を見ると、カーテン越しに外が白々と明るいのがわかる。ベッドをそっと離れ、外を見ると、しんとした静けさの中で白い太陽が光っていた。白夜だ。人間以外のものが通る気がして外を眺めていた。
今思い返しても、管理人の娘の話がなぜあれほど仔細に理解できたのか、あの死後の世界のような場所がなんだったのか、よくわからない。白夜の興奮とその後に得た情報で記憶が再構成されているのかもしれない。神話的な体験。翌日、私の妹弟と見に行ったけれど、テントは見つからなかった。
こんな感じの56日目。旅は残り44日。
イナリには、死ぬまでにもう一度行きたい。
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