見出し画像

デンマーク在住約20年。声を大にして言いたい「デンマーク!ありがとう。」

「あなたはどうしたい?」と聞かれて育ってこなかった。

 デンマークの女性雑誌Livに掲載された、私のインタビュー記事の題名がコレ。「デンマークに住む40才以上の外国人女性は、デンマークをどう見ているのか。」というテーマの記事だった。

 地元のカフェで、ジャーナリストのカーンさんとインタビュー。デンマークに来た理由。デンマーク語のこと。日本人だと感じる時。デンマーク人になったと思う時。などなど、1時間以上インタビューは続いた。彼女の質問が面白く、さらに聞き上手で、本当にいろんなことを気持ちよく話した。

 デンマークに来たばかりの頃、何に驚いたかと質問された。私はデンマーク留学時のビックリエピソードをカーンさんに話した。そこでの話の一部が、記事の題名にもなった。

 留学先のホイスコーレ(デンマーク発祥の成人教育機関)は海洋スポーツにも力を入れていた。私はセーリングの授業をとっていた。その日は、デンマークにしては珍しいとても暑い日だった。授業前、港でデンマーク人の生徒が、先生に直談判している。「とっても暑いしお天気もいいから、今日は授業を中止にしてはどうか。」と提案している。そんな提案を先生にするなんて、私には思いつきもしなかった。驚いている私を更に驚かせたのは、先生がOKして、休講になった事。暑くてしんどいから休講ではなく、せっかくの晴天を楽しみたいから、というポジティブな意味で休講。

 カーンさんに「こんなやり取りは、日本では想像もできない。ありえない。」と興奮気味に話した。続けて、職場の話も。(私は日本で5年間、都立養護学校の教員をしていた。現在は、デンマーク公立特別学校の教員兼管理職。日本とデンマークの学校を比較してお話した。)

 デンマークの学校では会議は時間内に終わり、会議が終わるとさっと帰宅する。日本の学校では、退勤時間を過ぎても議題が終わるまで会議は続いた。日本は集団意識が強く、仕事へのモラルも高かった。ただその反面、デンマークに比べると、個人が判断をする場面は少なかった。デンマークでは判断する場面が多くて戸惑うこともある。私は、子供の頃から「あなたはどうしたい?」と聞かれて育ってこなかったと感じる。デンマークでは、小さな時から「あなたはどうしたい?」と聞かれて育っている。幼稚園でも「外で遊びたい?室内で遊びたい?」と。

デンマーク女性雑誌Liv日本語訳

 私は、子供の頃から「あなたはどうしたい」と聞かれる機会が少なかった。強く何かをしたい!と思った記憶もあまりない。多くの人と同じ選択。流行っている選択。無難な選択。「みんなとおなじ」が安心だった。

 日本での仕事を辞めて、27歳で留学。選択を迫られる場面や、「サヤカはどう思う。」と聞かれる場面が沢山あった。「私は何をしたいのか」自分に問うてこなかったツケが、27歳から回ってきた。答えがない。考えがない。分からない。考えが深まらない。情けなかった。

 デンマークに移住してまもなく20年。デンマーク社会でSayakaとして生きていくうちに、私はデンマークに育て直された。自分の足ですくっと立つ、自立した私。「私はどう思うか、どうしたいか。」と自分に問い、周りからも問われて約20年。そして、わたしの答えを聞き入れてくれる人たちに出会い、認められる経験を重ねて、私はデンマークに育て直された。

 「教育の目的は人を育てること。」と考えるデンマークで、私は人としてデンマーク社会に育て直された。そのプロセスをこれから書いていきたいと思う。

1800年代のあの人。手を握ってお礼を言いたい。


「この絵どう思う?」と先生に聞いたことなんてない。

 「ねーねーロランド。この絵どう思う?」とノルウェー人のカトリーナが先生に聞いた。先生はカトリーナの絵の前に立って、「ここが〇〇でいい。」とか「こうしたらどう?」とアドバイスしている。先生に意見を聞いたこと驚きだった。更に、堂々としてるカトリーナは18才。そのやり取りを、私は白い粘土をコロコロ丸めながら見ていた。留学先での自己表現(美術)の授業の一コマ。

 先生に意見を聞いた事なんてない。先生と対等に話したことなんてない。

 私には衝撃的な光景だった。

 ちなみにその授業は、何をしてもOK。「自由に好きなことをしていいよ」と先生のロランドに言われ、カトリーナはすぐに油絵に取り掛かった。私は「自由に好きなことをしていい」に困っていた。そんな美術の授業は受けたことがない。他の生徒達も、やりたい事をみつけてとりかかっていく。

 みんなの邪魔にならないよう、空いていたテーブルについた。そこにあった粘土をコロコロし始めた。次の週も何をしたいか分からず、コロコロした。数週間コロコロして、なんとなく粘土で顔を作った。

 紙漉きをしてみようと思い、ロランドに紙漉きの道具はないかと尋ねた。どんな道具が必要か質問され、次の週にはロランドの手作りの道具が用意されていた。ロランドは私の願いを聞き入れて、準備してくれた。

 学期の終わりには、ロランドに頼まれて生徒によく似たフィギュアを粘土で作った。このフィギュアを使って、アニメーションを撮ろうと考えていたみたいだ。留学先は世界中の留学生が集まる学校で、個性的な人が多かった。キャラの立つ人をピックアップして、その人の特徴を大げさにしてフィギュアを作った。
 コロンビア人のハニバルは、クルクルカーリーヘアーがトレードマーク。でも髪の毛はいつもぐしゃぐしゃ。「鳥の巣みたい」と思っていたので彼のフィギュアの頭には鳥を住まわせた。お料理が上手な韓国人のまさきさんの手にはフライパン。よく着ていた緑の服も。ドレッドヘアーがトレードマークのポーランド人ポーリナの髪は、むちゃくちゃ長くした。本人たちはとっても喜んでくれて、周りの人は笑顔になった。

 自由に意見を言える環境があって(自己表現の授業)それを聞き入れてくれる人(ロランド)がいる。私がする事(粘土)を喜んで認めてくれる人たち(他の生徒)がいる。

 この自己実現の授業でのプロセスは、私がデンマーク社会で様々な形で経験してきたものと同じ。デンマークの学校教育が大切にしているものと同じだった。

 27歳。再びアイデンティティーの模索はじまる。

 私は27歳の終わりにデンマークにやってきた。5年間勤めた東京都立養護学校(当時)の仕事をきっぱりやめて、「行かなくては!」と何かに押されるように留学した。

 留学したのは、デンマーク発祥のユニークな学校。フォルケホイスコーレという成人教育の為の学校。
・17才半以上なら誰で入学できる。(入試なし)
・試験をしてはいけない。
・対話による授業中心
・全寮制
・先生もキャンパス内に住んでいる。

 1830年代にデンマークの父グルンドビが提唱した学校。上流階級の男子しか教育を受ける機会がなかった時代。「農民に教育を与え市民に。」「知識と教養を与え、民主主義国家に活発に参加する市民を育てる。」「エリートではなく普通の人が政治をする国に。」のアイディアを実現するために作った学校。

 最初のフォルケホイスコーレが出来てから約200年。現在、教育は大学まで無償。市議会議員は(市長以外)仕事を持っている。政治への関心は高く、投票率は高い。グルンドビが目指したデンマークになっている!

 今でもデンマークには約70のホイスコーレがある。グルンドビの理念は変わらず受け継がれている。

 そんなユニークな学校で1年半を過ごした。留学当時27歳。私はアイデンティティーを見失った。日本で5年仕事をして、社会経験も積んでいた。日本で教員として責任のある仕事をし、社会でも認められていると感じていた。それなのに、私は自分を見失った。

 日本にいた頃、自由奔放で、自分の意見をバンバン述べ、活発なイメージの私だった。デンマークに留学してから、それは私のごく一部で、誰かに求められている私を一生懸命演じていたのではないかと思うようになった。 

 ホイスコーレに来て、先生の肩書も学歴も通用せず、友達や家族もおらず、あるのは「私」だけ。それなのに「私」が見えない。

 アイデンティティーを見失った。私って何者なんだろう。私はなんの特徴もなくてつまんない。と、キラキラ輝いてホイスコーレライフを楽しむ他の生徒を見ながら思っていた。

 砂のように崩れたアイデンティティーを見ながら、悩んで迷った。ホイスコーレの暮らしやの学びの中で、できることを差し出し、認められ、少しずつ砂をかき集めて、自分を知った。それは、ホイスコーレの毎日の生活の中だったり、自己表現の授業の粘土フィギュアだったり、何気ないことだったり。

 これもグルンドビさんの思い描いていたホイスコーレの理念だった!と気づいたのは、随分時間が立ってからのこと。ホイスコーレは寮生活をして常に他人と関わる中で、自らを知り、何をしたいかを自分に問う場でもあるのだ。になっている。私は、グルンドビさんの手を握って「ありがとう」と何度も言いたい。

私を引き上げてくれたデンマークの人々


 この20年間で、わたしが行き詰まった時に、ぐいっと私を次のステージに引き上げてくれた人達がいる。

履歴書を見ながら、最強のお守りをくれたビビカ


 最初は留学先の校長先生のパートナービビカ。長男が一歳半になった頃、仕事を探し始めた。ビビカに「履歴書見てあげるわ!」と声をかけられたのが始まり。彼女と特に面識はなかったけれど、熱心に私の履歴書を見てくれた。当時彼女は、労働省に勤めていた。

 私の履歴書をいい感じに直してくれた。更に推薦文を書いてくれ、推薦人を校長にしてくれた。私の履歴書を見ながら、「あなたのような能力の人こそ、仕事を手に入れるべき!」と、強く背中を押してくれた。彼女の履歴書のおかげもあって、私は最初の採用面接で合格。履歴書作りを手伝ったくれたことも嬉しかったけれど、彼女の強い一言が、お守りのようになった。いまでも、なぜ彼女が私唐突に声をかけてくれたのか?と思う時がある。

私の能力を信じてくれたアニャ


 続いて同僚のアニャ。学童クラブでの仕事を2年続けた後、「もっと責任のある仕事がしたい」と、併設する特別学校に転職。補助員として働きながら、週に1回2年間教員養成学校に通い、必死の思いでデンマークの美術教員の資格を取得。勤務していた学校で正式な教員として採用され、重度心身障害児のクラス担任となった。

 重度心身障害児クラスの担任を6年勤め、そろそろ知的発達障害のクラスに移りたいと思い、リーダーに直談判するも「あなたの言っていることは分かるんだけれど、発音がねぇ・・・」とデンマーク語を指摘され、意気消沈。ずっとコンプレックスだったデンマーク語を指摘され、この職種に私の未来はない、と転職を考えはじめた。

 すると、以前一緒にプロジェクトをやったことのある同僚アニャが「一緒にクラスを立ち上げよう」と声をかけてくれた。リーダーと私のデンマーク語に関するやり取りを伝え、私は半ば諦め気味。アニャはリーダーに直談判し、メールを書いて、諦めず交渉してくれた。渋々了承という形で私達は一緒にクラス担任をすることになった。

 一年で成果を出さなくては、という意気込みとプレッシャーを背負ってのクラス担任。同僚アニャの他にも良い同僚に恵まれ、お互いを活かした良いクラス運営ができた。年度の終わりに、リーダーに呼ばれ、「あなた達を一緒に働かせて良かった」と言われた時、私達は抱き合って喜んだ。

青天の霹靂人事


 3人目は今のリーダーキャステン。知的発達障害のクラス担任をして4年。そろそろ新しい挑戦が必要だと感じ、転職を考え始めた今年2月。

「来年度のことでちょっと相談したいから、オフィスに来て。」とキャステンに呼ばれた。「来年度のシフト編成のお手伝いでもするのかな?」と思い、軽い気分でオフィスへ。

「同僚やグループのことではなく、自分がどうしたいかをよく考えてね。来年度のことなんだけど、、、管理職にならない?あなたには、シャープさ、オーガナイズする力があって向いていると思う。」と。青天の霹靂!

「なぜ私?Why Me?」が頭をぐるぐる。キャステンは、管理職のタスクを色々楽しそうに話す。どれも、ワクワクするし、やってみたい!と思うことばかり。

 最高の同僚チームと一緒に良い仕事ができた4年間。今の仕事でゴールにしていた地点まで来た。次の挑戦はどこか探っている時期だった。日本とのオンラインの活動も軌道に乗ってきて、来年度は出勤時間を減らしてオンラインにもっと力を入れようと思っていた。新しい挑戦は、思い描いていたものとは違ったけれど、向こうからやってきた。

 リーダーの仕事って奥深そうで人間味溢れる。ワクワクが大きい。私を育ててくれた職場、デンマークに恩返しの気持ちもある。私が「人」としてこれからどんな成長をするのか、とっても楽しみ。

マイノリティーとしてこの国で暮らすということ

首相も校長も医師もみんなファーストネーム

  「『さやか先生』ではなく『さやかさん』と呼んで下さい。」と、日本の講演先にお願いすること数回。「さやか先生」と呼ばれるのは違和感を感じる。

 デンマークでは、子どもも大人も、生徒も先生も皆ファーストネームで呼び合う。首相も校長も医師もみなファーストネーム。敬語もない。フラットなのは、言葉や呼び方だけではなく、人間関係もフラット。

 子どもも大人も、1人の人間として尊重され、意見が聞き入れられる。外国人というマイノリティーの私でも、職場や社会で、一個人として尊重されている。

新人外国人補助員でも

 デンマークで最初に就職したのは、学童クラブの補助員としてだった。日本の教員資格は、こちらの教員資格として認められず。補助員は無資格でできる仕事だった。アクティビティーについて決めたり、子どもに関わる交渉や連絡をするのは教育をうけたペタゴー(社会生活指導員)。私は、ペタゴーと、もう一人の補助員と3人でチームを組んで働いていた。

 言動のとても気になる女の子が学童クラブにいた。チーム内のペタゴーや補助員に何度言っても「あの子はそういう子だから」と取り合わない。気になる言動が積み重なって、放ってはおけない。私は学童のリーダーに直接訴えた。それから数週間後、リーダーから「ケース会議であの子のことを取り上げたよ。」と言われた。

 職場に入ったばかりの補助員。更に外国人の私の報告をきちんと受け止め、行動をとってくれた事に驚いた。私も1人の職員として、きちんと認められていると実感した。

「何語を話しているの?」と真顔で聞かれる。

 デンマークの公用語はデンマーク語。嘘か真か、世界で二番目に習得が難しい言語らしい。文法は単純なのだけれど、発音が難。母音の数は、世界中の言語の中でも最多らしい。約20年住んでいても「aとå」「øとy」ナドナド違いをはっきり発音できない音が沢山。息子たちが幼稚園生の頃から、「ママその発音は、、、」と直される。Siriにデンマーク語で話しかけても、わかりあえず喧嘩になるだけ。

 デンマーク語には今でも苦労している。集中しないと聞き取れない、複数で話すと話題を見失いがち、発音、言い間違え多々。小さな子供には「何語を話しているの?」とデンマーク語で真顔で聞かれる。今でも。

 就職したばかりの頃は、デンマーク語が出来ない自分を隠したかった。デンマーク人のようにならなきゃ!と無理な目標設定をしていた。同僚にデンマーク語のことを気軽に聞けなかった。でもだんだん、デンマーク人のようになるのは無理だと気づいた。失敗フリーにならないデンマーク語の事ばかり考えていると暗くなる。私に出来る事、得意なことで貢献しようと、考えをスイッチした。

 新しく仕事をすることになった同僚には、私の得手不得手を伝える。デンマーク語の正式文書はチェックをお願いしたい。私のデンマーク語がおかしかったら、直してもらって全然構わない。むしろ、在住歴が長くなると直してくれる人がいないので嬉しい。と伝える。

 出来ない自分を受け入れたら、とっても息がしやすくなった。

闘いが終わった日。自分にOKを出せた日。

デンマークに移住してから、私はずっと闘っていた。デンマーク語を習得しないと、この国で暮らすのは難しい。語学学校を卒業したら、仕事を探さなくては。仕事を始めたら、クビにならないか不安。私は同僚のお荷物になっていないか。デンマーク語はずっとネック。社会に馴染み、社会に貢献しなきゃ。ずっと闘い。

 その闘いも、ある日急に終わりが来た。前の章で書いた、同僚アニャのお話し。私達は、渋々リーダーが了承という形で一緒にクラス運営を始めた。お互いの能力をリスペクトしていたし、お互いの弱点も知っていた。私は、一年で成果を出さなくてはというプレッシャーが強かった。

 子どもたちは1年で成長し、多くを学んだ。保護者もとても喜んでいた。同僚間の関係も良好。日本とデンマーク合わせて、10年以上の教員経験で、最高の年だった。年度の終わりに、リーダーに呼ばれ、「あなた達を一緒に働かせて良かった」と言われた時、私達は抱き合って喜んだ。事情を知っている他の同僚は、翌日私にシャンパンをプレゼントしてくれた。

 リーダーの一言を聞いた時、「闘いが終わった」と思った。もう闘わなくて良いんだ。私はデンマークで認められている、と感じた。15年以上の闘いが終わった。

 闘いの相手は、社会や職場や周囲の人だと思っていた。でも、闘いを終えてみると、闘いの相手は自分だった事に気がついた。私は頑張り続けなければ、価値がないと思っていた私。デンマークも周りの人も、わたしの存在にOKを出してくれているのに、それに気がついていなかった。気がつくまで長かった。

 自尊心をきちんと育ててくれ、沢山の社会や周囲の人との関わりで自信をつけさせてくれたデンマークに、私は声を大にして言いたい。

ありがとう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?