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大切な人たちが”健康に幸せ”でいるために。わたしができること。

 「たくさんの人が愛ある人生を歩むには、知識とゆとりが必要」と語る畑理恵子さん。エステサロンを開業した後も、子育てをしながらお仕事で新しいチャレンジを始めようとされています。

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 理恵子さんにとって今に至るまでの道のりは、不思議と導かれているかのような感覚があるとのことでしたが、選択肢と向き合いながら最善を尽くして歩む姿勢は、たくさんの人にとって励みになる生き方です。理恵子さんが天職のエステと「出会う前」「出会った後」「これから」のお話をお聞きしました。


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 小学生の頃から料理が好きで、パテシエになりたいと思っていました。家に「美味しんぼ」「クッキングパパ」と言った漫画が全巻揃っていて、漫画に載っているレシピの料理を作ってみたりしていました。

父の影響もあったと思います。父は最先端の料理へのアンテナがすごくて、カナッペやトマト鍋なども、流行る前から家で作ってくれていましたね。

 わたしが初めて作った料理は手羽先餃子。父の会社のBBQで、手羽先餃子を妹と前日に仕込み、当日その場で会社の人に振る舞ったのです。

「りえちゃんすごーい!」とみんなに褒められたことで、将来は料理に関わる仕事がしたいと思うようになりました。中学生からは月1回、ストレス発散でお菓子を作るようにもなって。

ですが、妹の方がうまく作れていたので、妹には敵わないなぁと思っていました。

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 調理師になりたくて東京の専門学校の推薦をもらっていましたが、その時ちょうど、父が仕事で関西に行くことになり、私もついていくことになったんです。

関西だったら、神戸ではパンやお菓子、京都は日本料理、大阪は粉もん文化と食の文化が栄えている印象があったので、関西の専門学校で学んでみるのもいいかもしれないと思ったことも、父について関西へ行こうと思った理由の一つでした。

親の勧めもあって、選んだのは栄養師と調理師の両方の学科がある専門学校。栄養師学科に1年通い、2年生からは昼間は栄養師学科、夜間は調理師学科というスクールライフを送っていました。

 2年間の栄養師学科を卒業してからも、調理師学科は1年半まであるので、半年間は夜だけ学校へ行かないといけません。調理師学科を卒業後に調理師として働きたいと考えていましたが、在学中に学校からお声がかかり、調理師学科の先生の補助の仕事をすることにしました。

その頃は、朝は先生、夜は生徒として、1日中学校にいましたね。夜が遅い日も、次の日の実習の準備とかもやっていたら、睡眠時間が十分に取れません。体力的にも精神的にもきつい状況で「顔が死んでいるけど、大丈夫?」と周りの人から言われるほど、働きづめでした。

 そんな私の状況を心配してアドバイスをしてくださった方もいました。夜間は転職組が多くて、当時学校で仲良くさせてもらっていたのは、会社員を経験してから学校で学び直しているお姉さん達。そのお姉さん達も昼間は栄養師学科、夜間は調理師学科とダブルスクールで学んでいる人もいました。

「昼間生徒として学んでいる私たちでも、夜間とのダブルスクールはきついのに、昼間先生やって、夜間も学校に通うのはきついよ。まだ若いんだし、無理する必要はないんじゃない?若いときは勉強方法も覚えているから、今のうちに色々学んで、他を見てみるのもいいんじゃない?」と他の道を示してくださいました。

わたしは調理師しか頭になくて、他のことにも興味がなかったので、お姉さん達の言葉で調理師以外の道もあることに初めて目を向け始めました。

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 調理師以外の仕事であれば、理学療法士や鍼灸師、柔道整復師の仕事にも興味がありました。父と兄は、腰が悪かったのと母はスポーツをやっていたので、身体をほぐすようなことができれば家族みんなが喜んでくれるかな?と思ったからです。でも、「勉強無理!」とも思っていたので(笑)、他に何かないか探していました。

 ある時、調理師学科のお友達のお姉さんから「疲れているんだったらエステでも行ってきたら?」と誕生日月の優待券をいただいたんです。

これが私の「エステとの出会い」でした。

 エステでデコルテマッサージをしてもらった時、意外な発見がありました。私の中でのエステのイメージは「美容」や「痩せる」といったイメージで、「身体をほぐす」イメージはなかったのですが、肩をほぐしてもらったことで「家族の身体をほぐして喜んでもらうこと。」がエステだったらできるかもしれない、と興味を持つようになりました。

それで、1年で卒業できるエステの専門学校を探して通うことにしたのです。ですが、この時はまだ「エステティシャンになりたい!」という強い想いはなくて、どちらかと言えば、調理の世界から少し離れるための「逃げ場」としてエステの道を選んでいました。

料理することが大好きだったからこそ、「包丁握りたくない。」「鍋を振るのもイヤ」と料理を嫌いになりたくなかったのです。

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 就職先は「筋肉をほぐして血管を綺麗にして流すのをオールハンドでできる。」といった「筋肉」「血管」といったわたしの中で気になっていたキーワードをもとに探しました。

受かったのは、関西で12店舗を展開していて「細胞からの若返り」をうたっていたところ。会社の研修では美容だけでなく、身体のことなど、いろんな勉強をさせてもらえました。栄養師の勉強をしていたので、身体の話は聞いていても、なんとなくわかりました。

技術を学ぶのは楽しかったですね。習ったことを他のスタッフに教えたりもしていました。施術デビューは同期の中で一番遅かったわたしですが、一番早く副店長にしてもらえました。

 エステのお仕事でも、お昼ご飯を食べている時間もなく、朝から夜まで仕事の日々。やっとご飯食べたら、そこからカルテを書いたり。辞めていく人も多かったですが、調理師時代の経験があったから全然苦ではありませんでした。

お客様の変化が目に見えてわかり、結果がすぐに出るエステの仕事は楽しくて、面白かったからです。学校の勉強は得意ではなかったけれど、エステの勉強は好きで、ずっと勉強していられました。逃げ場だったエステの仕事は、いつの間にか私の天職になっていたのです。

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 エステの仕事は好きでしたが、東日本大震災が起こった時、東京へ戻りたくなりました。その頃にはわたしだけが関西にいて、家族はみんな東京。今後も東京で何かがあった時、すぐに何もしてあげられないのは嫌で、東京に帰りたいと思ったのです。

マネージャーに「仕事を辞めようと思っています。」とすぐに相談したところ、マネージャーからは「遠くにいるからこそできることもあるでしょ。水が足りないなら、みんなで水を送ろうよ。」と言われて、それもそうだなと思い直しました。

また、マネージャーはわたしが表彰されていないことを気にしていました。会社では、売上や新規獲得数などで半年に1回表彰式がありました。わたしは副店長になってまだ1度も表彰台に上がっていなかったので、マネージャーから「何か表彰台に乗ってから勝ち逃げしなよ、まだ何も残せてないでしょ?」と言われたんです。

それまでは表彰自体にはあまり興味はなかったのですが、そこから仕事をさらに頑張るようになって、奇跡的に売上1位を獲得するまでになりました。

 表彰もされるようになって順調だったお仕事。「もう辞めて、東京へ戻ってもいいかも。」と思えるほど、やり尽くした感じがしていました。それでも実際に辞めるタイミングはすごく悩みました。

「お客様を残して辞めてしまったらお店は新しい店長や副店長と新人だけになって、今までと違う店になってしまうのではないか?」と思っていたからです。「もう少し居ようかな」と迷っていた時、父に仕事について相談する機会ができたのです。

 わたしの気持ちは、父が言ってくれたことで固まりました。

父は「その会社に骨を埋めたいと思うのなら、今が踏ん張り時だ。でも骨を埋めたいと思う気持ちがなければ、お前一人が辞めたところで会社がどうこうなるはずじゃない。どうにかなるようになっていて、それが会社というもの。お前一人がいなくなって、お客さんは『前と違う』と思うようになるかもしれないけれど、会社は対応するし、なんとでもなる。自分を高くみるな。」と、言ってくれたのです。それで私はすごく気が楽になって、会社を辞めて東京へ戻ることにしました。

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 エステのお仕事は好きだったので続けたかったのですが、前の会社はやっぱり好きだったので、別の会社に入るという考えはありませんでした。

とりあえず、働きづめの日々だったこともあり、周りからは「ちょっと休んだ方がいい。」と言われていたので、1年くらいは自由に過ごそうと思っていました。1ヶ月短期のオペレータのバイトをやったり、夜は歯医者のバイト、昼間はパイナップルケーキ屋のバイトをしてフリーター生活を送っていました。

 ある時、父が行っていたスナックのママさんがエステを開業したいから協力してもらえないか、と声をかけてもらえたんです。どんなお店にしたいかお話を聞くと、すごく素敵だったので協力させていただくことにしました。2つのバイトに入る日数を少なくしていって、最終的にはバイトを辞めてエステの仕事にシフトしていきました。

 その後、そのお店を閉めることになり、自分のサロンを開業することになったのですが「開業しよう」と思っていたわけではなく、ほんとうに自然な流れでした。ママさんから「エステで使う道具はもういらないから、道具いる?」と言っていただけて、一部の道具をもらうことができたんです。

道具をもらってからどうするかは考えようと思っていて、歯医者のバイトを紹介してくれた友人のお父さんに置き場所を貸してもらえることにもなりました。そしたら、そのお父さんからから「エステはやらなくていいの?」と声をかけてくださって、サロンを開業することになったのです。その他、道具を安く買わせてもらえたりもしていたので、少ない開業資金でサロンをオープンすることができました。

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 開業後は妊娠したことをきっかけに、エステを今後どうしていくか、自分がやっていることを一度見直してみることにしました。子どもが生まれてからもやれるのか、手を離れるまではやれないのか、すごく悩んでいたんです。今までも自分ができる最前のことは尽くしていたけれど、目指すものとはかけ離れていたので本当にこれでいいのかな、とも思っていたり。サロンを続けるのではなく、どこかに就職してパートで働くのが良いのか、など働き方の方向性を探っていました。

 考えているうちに、そもそも「私は何も知らなさすぎる。」と思ったので、まずは個人事業主でサロンをやっている人や、ほかのエステティシャンの人の話を聞いてみることにしました。「今何をやっているのか?」「なぜそれをやっているのか?」を聞き回っていましたね。

 その中で、たまたまイベントで知り合った人がフェイスブックで上げていた投稿が気になって、どんなことをやっているのか連絡してみることに。「一度きてみますか?」と言っていただいたので、その人のエステを体験しにいきました。妊娠中で安定期に入ってきた頃で股関節が詰まっていていたのですがエステの帰りにすごく足が上がって「これいいな。」と体感があったんです。商品説明会にも参加させていただき、技術や商品についての確信が得られました。日本ではこの技術を取り入れているサロンがまだ少ないので「わたしのサロンにとって、プラスになる!」と思い、出産前に技術を取得。本来は3ヶ月かかるコースでしたが、他にも短期間で学びたい人がいたので、特別に1ヶ月で習得できるよう、ありがたいことにコースを調整いただけたのです。

 わたしは考えて行動した結果、「どこかに就職する道」ではなく、「新しい技術を取り入れて自分のサロンを継続する道」を選びました。

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 将来的には旦那さんと一緒に、エステと飲食店が融合した場所を作りたいです。エステのあとに、お客様から「このあと、ご飯は何食べたらいい?」と聞かれることがよくあります。それだったら、エステのあとに身体に良い料理を提供できればいいなと思ったんです。イベントもやれてみんなで集まれる場所にしていきたいです。

 あとは、コロナで外出自粛期間、サロンを休業してお客様に何もできないことがすごくもどかしかったので、オンラインで健康について伝える講座についても進めていこうとしています。

 わたしは小学生の頃身体が弱くて保健室通いの子どもでした。体調が良くないことがどれだけ嫌なことか身にしてわかります。だからこそ、エステで、健康に幸せでいるためのお手伝いをしたいです。 

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 ある方から「あなたは愛される運命の人」と言われたことがあります。

「あなたは愛されているでしょ。」と聞かれた時に、わたしは「はい。」と即答したのですが、「それはみんながみんな言えることではない。」「愛情を与えてもらっていること、愛されていることを自覚していることはすごいこと。それがあなたの強み。あなたは誰からも愛される。」とおっしゃってくださいました。

すごく嬉しかったですね。わたしは何かある度に人に助けてもらってきました。愛情いっぱい育ててくれた両親、子どもの頃から可愛がってくれた地域のおじさんおばさん、一緒に過ごしてくれた友達、わたしを心配して色々アドバイスをしてくれた人たち。

関わってくれた人の愛情があったからこそ助けられたので、わたしも周りの人に愛情表現していきたいですね。わたしを愛してくれている人たちが健康に幸せでいてほしいので、これからも愛情を伝える一つの手段として、お仕事と向き合っていきます。


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