コミュ障についての一つの考え方 その②

ある情報を見て、それを自分が「興味深い」と心で感動するときは、それが自分の中の高い視点の反映だからだと思っています。そして、心が動かされるような人との出会いは、人生の奇跡である、と聞いたことがあります。

目の前にある現実は、まるで自分から切り離されて存在しているかのように見えますが、実は全てが自分という在り方の結果であり、全てがつながっている。元々「なぜ生きるんだろう」と思っていたので、そういった精神的なことやスピリチュアル的な視点について、とても興味があり色々と調べてきました。

私は、思いを言語化するのに一苦労します。対面の会話中に頭の中に表現したい言葉がなかなか出てきません。今まで何となく気になってはいましたが、先日カウンセラーの方から、「コミュ障」と教えてもらい、その理由を、生まれた時の星座のホロスコープを見てくれました。

私の場合は、太陽のそばに、コミュニケーションや伝達を司る水星があり、太陽に飲まれてしまう、とのことでした(表現の仕方は違ったかもしれません)。それを聞いた時、「あぁ、言語化し辛いのは仕方ないな」と納得しました(笑)生まれながらにそうであれば「うまく喋れなくて嫌だなぁ」という今までのストレスは当たり前だった、ということに安心しました。

私自身はそのように会話が流暢ではないし、ずっと話してはいられないのですが、興味深いことに私の周りにいる方たちは、おしゃべりが好きな方が多いです。知り合いの中には、会ってからずっと喋り続けてる人もいます。私からすると「すごい能力だなぁ」と感心する一方なのですが、反対にそういう方たちは、人前で話す場がないとストレスを感じるようです。そして本人は「今日はあまり喋ってないほうかな」とも言ってました。

私はこの記事の中で「コミュ障は問題ではない」ということを書くつもりですが、今まで人と関わってきた中で感じてきたある「感覚」があり、それをみなさんと共有したいからです。

占いや様々な診断によると、人生にはサイクルがあって、良い運気、停滞する運気の時期が誰にでもあるそうです。私にもありまして、その時は文字通り「人生のどん底」でした。しかし全ての瞬間において全て自分で選択しているので、それ相当の選択を自分でしてきた当たり前の結果でした。

その経験を通してわかったのですが、起こるアクシデント自体が問題というよりは、自分にはそれと対峙する気力や勇気、希望などがない、と自分を疑っている時に、人は苦しいと感じるようです。そのイメージを自分に持っている間は、正直、何をしても(例えば生活習慣を整えることや、ダイエット、何かを学ぶこと)結局苦しさは改善されませんでした。

私の友人は、「sayakaといると落ち着く」と言ってくれることがあります。それは私の個性で、今までの人間関係で、よほど合わない時はそう頻繁に会ったりしませんが、基本的に私は相手に好意を持っています。自分ではその好意を「普遍的なもの」だと思っています。その人と会えて嬉しい、と。

そのような良いイメージを、自分に対して無理やりでも「持ってあげる」ことが、どなたの場合も再生の第一歩です。なぜなら、経験から言いまして、無条件に力が出るのは自分を愛してあげる時だからです。私はこのことを、ある方の本を読んで実践してみましたが、いろんな自分を認めてあげることによって、自分の中で安心感や明るい楽観的な心地よい感覚が起こり、色々と挑戦したくなります。誰でも、素敵な言葉を掛けられたり愛されたら無条件に嬉しいものです。

先日「コミュ障」と言われるまで、誰からもそのように言われたことはありませんでした。みんな思っていても言わないのかな?(笑)いずれにせよ楽しんで相手とコミュニケーションを取ろうとしていると、何とかなるものかもしれません。人とわかり合いたい、という思いが通じ合った時の感覚は言葉では表せないし、言葉で表現する美しさを味わった時も、言葉で表せないほど感動します。どんな自分でも愛してあげると、自分が心から喜んで、そのフィルターを通して見る世界は、すでに今までとは違う世界なのです。


sayaka























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