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「コンドルは飛んで行く」、ブラジル サンパウロのファミリー、『El Cóndor Pasa』。

私の感情が、ウユニ塩湖です。

は?また何を言い出した?!…ですが、ほんとウユニ湖なんです。
沈まないというより、沈めない。

結晶でひび割れる時期もあるそうですね。
でも鏡面のように美しい光景は、写真を検索しながら、本当に信じられないという様、この目で見てみたいです。
ボリビアか、、行ってみたい、行けるのだろうか。

他には、ポルトガルで「ファド」を聴いてみたいです。
そしてポルトガルの静かな地方の静かな丘で、私は何を思い浮かべるのだろうと思い浮かべます。
音楽だろうか、人だろうか、場の雰囲気に浸るのか、又は早く日本に帰りたいと思うのか、それとも村の道中で遭遇する野犬にひたすらビビる…のかも知れず、想像がつきません。

ブラジルに行きたいです。
サンパウロには私の親戚が住んでおり、会いに行きたいです。

ブラジルのサンパウロ、私の伯父が若き頃、飛行機では無く船で海を渡り、当時は港にて「今生の別れ」という様子だったそうです。

伯父はサンパウロで事業を起こし、イタリア系ブラジル人の女性と結婚し、私にはブラジル人の従姉妹たちがいます。
従姉妹たちは数種類の言語を使用しますが、普段はポルトガル語、仕事は英語等です。

少女時代にも毎年、伯父とふたりの従姉妹たちは、本国でのバケーション期間、日本に遊びにというか1ヶ月間程は滞在していました。
その少女時代、皆で日本のデパートメント・ストアに行き、従姉妹たちは日本でのジーンズを試着しました。
股下が、足りませんでした。
足りないのは(当時の)ジーンズのほうの股下です。
従姉妹たちの脚が長すぎました。
ジーンズの股下とウエストのバランスが合うタイプが無く、購入を諦めた思い出があります。

従姉妹たちは、大人になってからは「ユニクロ」に必ず行き、鮮やかなカラーのトップスなどを好んで買っていましたが、その着こなしは正に「ユニクロ」のオンラインストアのモデルのようです。
「無印良品」のグッズもお気に入りで、毎回必ず行きました。

従姉妹たちは私や私の弟とほぼ同年代、大人になってからも、伯父と一緒に、よく日本に来てくれました。

一方、伯父の親である私の祖父母もサンパウロへと何度か、伯父の元へと会いに行きました。

従姉妹のひとりは今は二人の娘さんのお母さんとなり、写真でしか拝見していませんがご主人もやはり事業で各国を飛びまわる人ですが(今この時代にどうしているのか急に気になります)、日系ブラジル人男性であり、写真を見て驚いたことは、伯父に何か外見が似ています。

伯父は日本に滞在時、お堀の周りを散歩しているだけで職質されるという、なんと言えばよいのか、、
もう見た目から何から、どういう人物なのかわからない、そしてからだつきも雰囲気も、"凄み"がにじみ出てしまっています。

そして開襟シャツみたいなものにユルッとしたズボンで歩いているだけで、伯父本人に自覚なくとも、失礼ながらあまりお近づきにならない方がよいのかと思わせてしまうような、迫力、と言えばよいでしょうか。

サンパウロでの、事業を始める前後の沢山の話には、それこそ身の危険な体験談も山ほど、そういう色々を生き抜いてきたゆえの、伯父の雰囲気だったのでしょうか。

日本に滞在時、毎回伯父が持参していたものは、サトウキビ原材料の「ピンガ」(カシャッサ)という蒸留酒(瓶入り)です。

サンパウロの日本人街のあちらこちらで、大いにピンガを酌み交わし大いに夢を語り合い、盛大に喧嘩したり、という話を、日本でピンガをのみながら語る伯父の話を、私は子供の頃からわくわくドキドキしながら聞き入っていました。

距離は遠いサンパウロの、時代も若き伯父の話、想像力を駆使しながらも、何となく親近感がわくような、私は未だに行ったことがないブラジルを身近にすら感じるのは、やはり伯父のファミリー、私には親戚が今この時間帯、季節や時刻はお互いに正反対でも、それぞれがそれぞれの場所で生きているということ、今現在は、伯父以外は。

数年前、伯父は、サンパウロで亡くなりました。

発病が悪化していき腹水を抜く通院を続け、大好きなピンガものめなくなり、送ってもらう写真の伯父は一見、伯父とはわかりません。

毎回の日本滞在時への往復は、エコノミーでは身体がツラいという風体のため、ビジネスで往来していた伯父が、闘病で痩せていました。

私が伯父の涙を1滴か2滴だけ見てしまったのは、あれはおそらく、そうなるとはまだ知らぬ闘病以前、そして祖母が100歳で旅立たつ数年前、まだ祖母がベッドで過ごさぬ頃でした。

伯父と従姉妹(その時はひとり)が1ヶ月以上の日本滞在を終え、建て替えてあるとはいえ伯父の生まれ育った祖父母の家の玄関を出、祖母が息子である伯父に、元気で暮らしてまた会おうと、祖母は明るく、意地でも泣きません。

それより以前は、親戚でも行ける者だけ行ける場所まで、例えば空港や駅、それぞれの場所に見送りに行き、祖父母も以前は空港まで行っていました。

長い長い時を経て、その日のその時は、玄関前の道で、祖母はひたすら笑顔で伯父に声をかけました。
祖父はもう、旅立ってから数年後でした。

毎回の伯父ならばそのシーンで、あっけなく素っ気なく少し照れくさいように言葉を交わし手を振りますが、その時の伯父は祖母に熱くハグをし熱く握手をし、その手で伯父は両目からのしずくを拭いました。

皆、気がついていたと思います。

気丈な祖母は、気づかぬふりで笑顔をつくります。

このシーンで例えば誰かひとりでも泣き始めたら、皆で泣き始めてしまう一触即発、今は沈めない、絶対に沈まないぞ、私たちは今、ウユニ塩湖の上に立っているのだ、日系ブラジル人一世と二世の従姉妹と、日本に住んでいる日本人の私たち、ここは紛れもなく日本なのに、紛れもなくウユニ塩湖の上だと。

私はそう想像し、耐えました。

それにしても、皆、意地を張る者たちばかりの集まりです。

泣いたら負け、のような?!

誰も挑んでこない勝負に自ら挑んでいく、その相手は常に自分自身という。

今の私ならば、あのシーンで泣き始めていたはずです、多分ですが。

祖父は100歳に近い年齢で老衰で旅立ちました。
元・教職の祖父は、90歳を過ぎても趣味のテニスを楽しみ、自宅では庭を眺めながら墨画を描き、毎年、教職当時からの「女学生」の皆さまが開催して下さる「〇〇先生(祖父)を囲む会」に招かれ、祖父の葬儀に昔の当時の「生徒さん」が皆さまで涙を流しながら弔事を下さいました。
心より、ありがたいです。

その数年後、前々から「私は絶対に100歳まで生きる」と宣言していた祖母は、本当に100歳になってから、老衰で旅立ちました。

とても多趣味で努力を厭わず、楽しいから頑張る結果、器用に見え、実際に常に何か作成したり描いたりしている祖母でした。

「真知子巻き」のようなファッションにロングコートの若い頃の写真の祖母は、祖母本人も話してくれていた通り、東欧の方の女性にか見えません。
生まれつき地毛は栗色のような、光加減で時には金髪に近く、ポーセリンのような色白、彫りが深くその鼻筋は100歳でもスッとし、祖母の子ども時代は当時の時代背景云々のためか、見た目が日本の人ではないという内容の、今で言えばいじめのような事に度々あい続け、それを笑いながら話す祖母、マイペースを崩さぬ強さを持ちます。

忙しい自営業の家に生まれた私は、いわゆる「おやつの時間」等を知らずに育ちましたが、江戸時代はお城があった内堀と外堀の向こう側に、お堀端の道を歩けば行ける祖父母の家に、私は頻繁にあそびに行きました。

祖母はよく「おやつ」に、"手作りのアイスクリーム"を用意してくれたり、夕ごはんも食べていきなさい「ライスカレー」を作るから、と、あの、昔ながらのイエロー色寄りの「ライスカレー」。

又は子供の私になぜか度々、ずっとお馴染みにしていた鰻店の鰻重または寿司店の握り寿司の出前、それにプラスして祖父は、配達に来て下さる酒屋さんの瓶ビール。
その夕食時、同時に私はなぜか、必ず小さなワイングラスにジュースの「ファンタグレープ」を注ぎ、飲んでいました。

私にはいわゆる「母の味」の記憶は無く、、というか、私の母自身も言うのですが…、無いです「母の味」の記憶が。
忙しい親の姿しか記憶に無い程です。
でも忙しい中、私は何の不満もありませんでした。
すべて、ありがたいことなのです。

そして、「祖母の味」、忘れません。

祖母は、自身の息子(私の伯父)がブラジルに渡ると宣言した当時も、それを阻止するどころか、猛烈な支援・応援を開始し、ありとあらゆる様々な方面に相談をしに行き、ブラジルへと先に渡っていた日系一世の皆さまとの繋がりをいただき、伯父はブラジルへの道のりを掴み、歩み出す一歩の始まりでした。

伯父のブラジルでの話は、滲むばかりに溢れんばかりに盛大な努力と根性、正に根性!です。

そして、ひと、です。

たくさんのひととの出会い、繋がりを大切にし、時に支え合いながらのドラマティックな人生を沢山たくさん話してくれるいつもの伯父が、ある時、私に言いました。

「ねえ、あなた(←私)はさぁ、今、独りじゃない?!
もう、ブラジルに来ちゃいなよ!!
おじさんの会社、継いで!!
俺の会社、継ぐ人いないの、
これ本気で言ってんの、ふざけてないよ、
考えてみて!!」と。

1度目の離婚をしたばかり(いきなり私事暴露ですが)の私に、いつものようにどことなくユーモアを漂わせながらも、眼光鋭いほどに、気迫真剣でした。

どういう返事をしたのか覚えていませんが、私はその後ポルトガル語教室にしばらく通い、そのポルトガル語も今は覚えていません。

今でもあの時どういう返事をし、どのような行動を取り始めるべきだったのか、タラレバ話にしかならぬ気持ち半分と、伯父は伯父でサンパウロで独り、沈まぬウユニ塩湖に立っていたのだろうか…と思うわけです。

腹水を定期的に抜く闘病通院生活でドクターストップもあり、日本への24時間以上の飛行機移動を諦めざるを得なくなった数年間、電話(国際電話)での伯父は、時には珍しく本音みたいな事を話しましたが、ある時
「もう日本に帰りたくなる。だって、俺の家もまわりもみんな、ポルトガル語ばっか話してるんだよ、もう何なんだよまったく…」と言い出した時には、もう皆で笑いました。

同時に、伯父の郷愁が伝わりすぎました。

そんなある夏の日、伯父から日本の妹二人(私の伯母と私の母)に、それぞれ国際電話がありました。

内容は、
『ドクターからOKが出そうだから、12月から年越しも日本で過ごす。
娘たち(私の従姉妹たち)と孫(女の子二人)も一緒に行く。
孫たちが東京ディズニーランドに行きたいそうだ。
ディズニーランドのホテルにも泊まらせてあげたい。
だから日本に皆で行くから。
そして俺はそのまま日本で死んでもいい。
もし日本で死んだら俺の骨はおやじとおふくろのお墓に入れてくれ』、と。

まずは、慌てて心配する伯母と私の母、どうすれば…、

そしてそれを聞いた私は年末のディズニーランド近辺のホテルを今からでも取れるのか、満杯ではと早速調べ始めました。

そして12月になる前に、心配や思案や準備をしている伯母に、伯父から電話がありました。

内容は、
『やっぱり、日本に行けなくなった。
入院しなければならなくなった。
孫たちがディズニーランドを楽しみにしていたのに、残念だ』、と。

それが、さいごでした。

年が明け、伯父は、旅立ちました。

しばらくして、サンパウロの従姉妹から、ポルトガル語での長い長い手紙が、伯父の葬儀の時の写真と共に送られてきました。

日本語も話せる従姉妹ですが、長文を本心にて日本語で書き記すのはさすがにニュアンスなどはやはり伝えにくいと、サンパウロでの日系一世の女性が全てを日本語での文章に訳し書き起こして下さった手紙も同封されていました。

葬儀の様子の何枚もの写真は、サンパウロで伯父が、本当にとてもたくさんのかたがたに如何に愛されていたのか、胸がしめつけられる程に伝わる写真ばかりです。

年齢人種などそこには関係なく、たくさんの方々が訪れて下さる様子に、ありがたい気持ちとお礼を申し上げたいばかりでした。

従姉妹からの手紙によると、病床の伯父の願いの通りに、葬儀のあいだじゅう、ある「曲」を流し続けて欲しいという伯父の願いを、実行したそうです。

それは『El Cóndor Pasa』、「コンドルは飛んで行く」を、葬儀のあいだじゅう、かけ続け、流し続けること。

それを読んだ時、ああ、本当に本当に、伯父らしい、伯父そのものだ、伯父が自身の旅立ちのときに、そのときのためにこの世の中からただ一曲だけを選び、それは『コンドルは飛んで行く』、これ程に伯父が伯父らしさをふりしぼった楽曲、願いはあるだろうか。

実際にそのあいだじゅう、ずっとずっと『コンドルは飛んで行く』を、かけ続け、流し続けたそうです。

そして後から知ったのは、、

12月から日本に行く予定・孫たちも皆で行くという電話での内容は、実は、従姉妹たちも誰も知らなかったという事です。

知らないどころか、その電話の頃には既に、もうそれ以上の治癒はのぞめない状態だったそうです。

そのような時に、立ち上がり歩行すらままならぬ伯父は、そういう電話をかけてきてくれました。

それは希望の電話であり、覚悟であり、もしかしたらさいごのお別れではなくさいごの約束のような、伯父の真意はわかりません。

ただ、あの電話の内容は、嘘ではない。

伯父らしい、伯父だからこその、メッセージです。


私の大好きな伯父さん、
今ごろは、どこかで、翼を休めていますか?

しばらくその力強い両翼を休めたら、またすぐに翼をひろげ、また飛び始めるのでしょうか。

「コンドル」について今一度調べてみました。

アルゼンチン、エクアドル、コロンビア、チリ、ペルー、ボリビア。

上昇気流に乗り、空高く舞い上がる翼だそうです。

ボリビア、チリ、コロンビア、エクアドルの国鳥、なんですね。

伯父さん、私が最初からウユニ塩湖を連呼しているボリビアが、今ここに繋がりましたよ。

伯父さん、私も結構つらいこともありますが、生きているあかしですが、できればこの先はあまりつらいことは無い方がいいなーとも思います、でも生きてますから。

ウユニ塩湖に沈まず立ち尽くす私を、その大空から、もし見かけたら、その翼音を私にきこえるよう轟かせてください。

たまにで、ほんと、たまにでいいですから。

そして必ず、必ず、ブラジルに逢いに行きます。


ありがとうございます。さやか



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