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窮鼠はチーズの夢を見る(映画)

はじめまして。初投稿です。

「窮鼠はチーズの夢を見る(映画)」気になっていたので

観ました。ついに。

正直にいうと、成田凌が出ているから興味があったのですが…。

いざ観ると成田凌も大倉君も役者ですね。

圧倒されました。最後は泣いてました。

余韻に浸りすぎて考えがぐるぐるして止まらないので

気持ちを文字に起こしてみました。



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窮鼠はチーズの夢を見る


チーズの夢を見ている間が一番幸せだったのだろうか。
「心底惚れた相手は例外になる」のだとすれば
心底惚れた相手の気持ちを手に入れたとき、感じる気持ちとは?
今ヶ瀬が感じたのは…?
追い続けて、追い続けて「やっとここまで来た」ならば、
なぜ彼は大伴の前から姿を消したのだろうか。

心底惚れた相手がいない私には永遠にわからない問なのか。
それとも今ヶ瀬だけが選んだ答えなのか。
心底惚れた相手と『添い遂げる』『ずっと傍にいる』のが夢ではないのか?
夢(心底惚れた相手)は見ている間が一番幸せで
相手が振り向いてくれるのを頑張って動いているときに幸せを感じるのが今ヶ瀬なのだろうか。
だとしたら、大伴と一緒に暮らしている儚くも夢のような時間、
今ヶ瀬があんなにも切なそうで苦しくて独りぼっちに見えたのはなぜだろう。

大伴の決断は彼自身を自由にした。本当の自分になったようにまで見えた。
「勝手な男」だと思う。
でも、今ヶ瀬を待つと決めた大伴の顔には、この映画を通して一度もなかった
清々しさがあった。

反対に、追い続けた相手に振り向いてもらった今ヶ瀬の涙の叫び。
「愛」されるというような表現を、感情を、どこか信じていないのではと感じさせた
二人のドライブのシーン。

人を簡単に寄せ付けては次へ次へと乗り変えていく「最低な男」だった大伴が
愛を見つけ、待つと決めた。

8年間ずっと大伴を追いかけ、やっと手に入れた今ヶ瀬。
愛され方がわからず、それが目の前に現れたとき、戸惑いの形が叫びになったのだろうか。

現代の日本ではまだまだ置き去り感の強いLGBTの話。
劇中でもたくさん表現されている。
それでも、好きに決まりはない。
大伴の言葉「自由だと」思うし、男女だろうがそうでなかろうが
苦しさも恋しさも結局は人それぞれで決まりなんてない。

今ヶ瀬の気持ちに考えを巡らせているうちに辿り着いたのはここだった。

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夜中に見始めて、そのまま書いた文章なのでいろいろ変ですが。

役者さんのことは全く触れていません。

今になって思えばあのシーンのことも書くべきだったかな

なんて思うこともありますが・・・

私の中では心に深く刻まれた映画のひとつでした。

また見直そ。

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