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【未公開原稿】サラディンの死


 きのう一晩吹き荒れた風で、宮廷庭園の果物が落ちてしまいましたので、ちょっとつまめる菓子を賄い方が作りました、と言って小姓がひざまずき、盆を差しだした。宮廷での食の給仕には、薔薇水ひとつとっても厳粛なしきたりがある。儀礼を無視したその不作法なやり方に、法官は冷ややかな目を向けたが、銀の盆がカタカタと小刻みに震えているのを見ると、小さく溜息をついただけで咎めようとはしなかった。連日、自分がろくに食事もとらずにいるのを気遣って、思い余った行動に出たのだろう。
 カーディ・ファーディル。《優美なる法官》という美称をもつこの男は、刻んだ果物を煮詰めて砂糖をまぶした色鮮やかな菓子をひとつふたつ手に取ると、その名のとおり優美に微笑んでやった。もっとも《優美な》という讃辞は、彼の外見や表情ではなく、そのペンから繰り出される驚嘆すべき文章に対して捧げられたものだった。恐縮した小姓が安堵した表情であたふたと退出した後には、みずみずしい果実の残香が漂った。

「もう十二日目ですね」
 入れ替わりに声をかけてきたのは、もう一人の法官、イブン・シャッダードだった。それが何の日数かは、聞かなくてもわかっている。悪夢のような十二日間だった。ダマスカス城の王宮の最奥にある、ほんの一握りの選ばれた人間しか出入りできない寝所では、かつてイスラームの大軍を指揮した一人の英雄が、今はたった一人で見えない敵と戦っている。
「たった六年ですよ。聖地エルサレムが我らが主君の手で解放されてから、まだたったの六年。地中海沿岸はことごとく我らムスリムの手に落ち、最後の要衝アッカでもようやく和平に持ち込んでこれからという矢先に、よもやこんなご病気になられようとは。まだ御歳五十五であらせられますのに。光と平安を取り戻したイスラーム世界は、再び底知れぬ闇に引き戻されてしまうのでしょうか」

 遠い西の大陸から大挙して押し寄せたキリスト教徒たちは「神、それを欲したもう」という合言葉を掲げ、聖地エルサレムで幾万ものムスリムやユダヤ教徒を虐殺し、足首までざぶざぶと血につかりながら、天を仰いで神に感謝の祈りを捧げたという。もう現世の誰の記憶にもない、遠い昔の惨劇だ。
 神は、それを欲したのか。一度も住んだことも見たこともない町を「異教徒に陵辱されている約束の地」として奪還せよ、そのためには何万人を虐殺してもかまわぬと、おまえたちの神は本当に望んだか。まったく怖気が走る、けったクソ悪い話だぜ、とファーディルは心の中で毒づいた。書記官として外交文書や主君を讃える頌詩を書く時は、コーランによって磨き上げられた美しい正則アラビア語を使い、硝子細工のように精巧な比喩と、天幕の支柱のように揺るぎない脚韻を自在に駆使したが、悪態をつく時は罵声を飛ばしやすい荒っぽいエジプト方言になる。

 イブン・シャッダードは目に涙を浮かべながら、続けて言った。
「せめて、生涯に一度はメッカに巡礼したいという願いをかなえてさしあげとうございました。偉大なる我らが主君は、この乱世なればこそ、絶えず陣頭に立ち、誰にも凌駕できぬ偉業を成し遂げられました。しかし、平時であればコーランをひもとき、ウラマー(知識人)や詩人たちとの対話を好まれるような御方でいらっしゃいますから」
 その口ぶりに、ファーディルに対する非難がこめられていたかどうか。主君のメッカ巡礼に反対の意を唱えたのは、他ならぬファーディルだった。ところが、ずっと黙っていたファーディルの口からようやく出た言葉は、
「そろそろミシュミシュの花の季節だな」
という、この場にまったくそぐわないものだった。ミシュミシュとは、アラビア語であんずのことである。
「は? 何と言われました?」
「昔、あの御方が仰せになっていたのを思い出した。エジプトには森がないから、いつ春が来たのかもわからない。ダマスカスなら、春にはグータの森でミシュミシュが一斉に白い花をつけ、風に吹かれてレバノンの雪のように舞い散るのだと。あの御方は生涯、馬上にあり転戦を重ねられたが、心はいつも、若い頃を過ごされたこのダマスカスの地にあったのだろう。無理もない。ここは町々の中の花嫁、緑あふれる楽園の都。砂塵と熱波にむせかえるエジプトとは比ぶべくもない。それがはがゆい時もあった。あなたはシリアのためにエジプトの富を利用するばかりで、真にエジプトを統べる王者となってはくださらないのかと……。まるで夫の不実をなじる女のようだな。俺はこの町に嫉妬していたのだよ」
 冗談とも本気ともつかないその言葉に、普段からファーディル風の言い回しに慣れているはずのイブン・シャッダードも戸惑い、どう言葉を返していいのかわからなかった。

 シリアとエジプトの王、エルサレムの英雄、将軍君主(スルターン)サラーフ・アル・ディーン危篤の報に、ダマスカス城の宮廷には名だたる武将や大臣たちが駆けつけていた。その多くが、エルサレム奪還の先駆けとなった、あのヒッティーンの華々しい戦勝を耳にしてから勇躍、旗下に馳せ参じた者たちだった。イブン・シャッダードもその後にスルターンに請われてこの宮廷に入った文官だ。
 だが、ファーディルは違う。エジプトで崩壊寸前だった前王朝を支えていた書記官ファーディルが最初にサラーフ・アル・ディーンに会ったとき、彼はまだシリアからエジプトに派遣されてきた遠征軍の一兵卒でしかなかった。二人とも三十歳になるやならずの頃である。ファーディルは英雄の名の下に馳せ参じたのではない。己のペンの力で一人の英雄を生み出したのだ。
 誰もが、スルターンのありし日の勇姿を讃えては、涙を抑えきれずにいた。ヒッティーンの決戦では真夏の炎天下の中、地の利を生かしてキリスト教徒の大軍をまたたく間に打ち破った。胸に赤い十字をつけたキリスト教徒たちは、この地が神から約束された自分たちの故郷だと言いながら、どこに水場があるかも知らなかった。スルターンは敗残の将に冷たい水を与えて釈放してやった。いかに寛容と慈悲がスルターンの美徳とはいえ、なんと愚かなことを――と誰もが思ったが、スルターンは涼しい顔で言ったのだった。「王は王を殺さず」と。
 エルサレムでは激しい攻防戦が続いた。両軍に多大な被害を出したあげく、ようやく和平が結ばれると、サラーフ・アル・ディーンは城壁内のキリスト教徒の虐殺を禁じ、身代金を取るだけですべて解放して、安全に故郷へと送り返してやった。
 武将たちが語り次ぐどの戦の話にも、スルターンの崇高な騎士道精神と寛大な慈悲深さを伝える逸話が金の鎖のように絡みつき、輝かしい勝利をさらに宝石のように磨き上げていた。だが、カーディ・ファーディルだけはそんな話にはまったく加わろうとしなかった。ヒッティーンやエルサレムなど、まるで興味もないといったふうなのだ。

 その時、一人の侍従が姿を見せた。
「申し上げます。スルターンの御子息、アフダル王のお呼びにございます」
 イブン・シャッダードはハッとしてカーディ・ファーディルを振り返った。ファーディルは王というその敬称に露骨に不愉快そうな表情を向けた。
 足早に案内され、通された部屋はスルターンが眠る部屋の近くにしつらえられたアフダルの居室だった。そこにはすでにダマスカスの二人の大臣が控えていた。連日の心労で憔悴しきっていたはずの若いアフダルは、どこか舞い上がっているふうにも見えた。
「おそらく、今宵が峠でしょう」
 自分より二十も三十も年上の四人の側近たちに向かい、アフダルは上気した顔で、なるべく厳かに聞こえるように言った。
「ついては、父が最も信を置いていたそなたたちには、夜通し城内に留まり、ともに父の側で過ごしていただきたい」
 ついにその時がやってきたのか。四人の側近のうち、一人は拳に力を入れ、一人は無念に目を閉じるしかなかった。イブン・シャッダードも覚悟を決めた目でうなずいた。

 そこに、つと、進み出る影があった。
「私はお断りします」
 低い声で静かに言ったのは、カーディ・ファーディルだった。ランプがゆらめく影を落とす中、微かなざわめきが闇を震わせた。ファーディルは淡々と続けた。
「主君ご病気の報はすでにこのダマスカス中に広がり、夜ごと城外には民衆が詰めかけ、我ら側近が王宮から退出するのをうかがっております。されどもし今宵、我らが姿を見せねば、おそらく民衆は事態を察し、国中に噂が流れ、暴動が起こるやもしれませぬ。なればこそ、私は退出させていただきます。御寝所にはどうぞ、コーランを朗誦するシャイフ・アブー・ジャアファルをお召しなさいますよう」
 明日からは自分の主君となるであろう若い王の命令をあっさりと拒否し、ファーディルは長い衣を翻した。王の返事も待たず、残された大臣たちのとまどいの声を意に介することもなかった。

 退出する法官ファーディルの後を追うひとつの影があった。
「本当によろしいのですか。あなたこそ、誰よりもスルターンの最期を看取りたいと思っていらっしゃったはず」
 ファーディルは足を止め、振り返った。それは、先ほど銀の盆で果物の菓子を差し出した、あの小姓だった。
「今宵ばかりは法官の衣を脱ぎ、長年の友としておそばにいらしてもかまわないのではありませんか」
 ファーディルは表情ひとつ変えずに小姓を見下ろした。
「いや、だからこそ、だ」

 地上のすべては、つかの間の現世の夢だ。俺とあの御方は長い間、ともに夢を見ていたのだ。シリアからエジプトに派遣されて来たばかりのあの御方のまわりは敵だらけだった。腐敗したエジプト王朝の頂点の座に無理やり引きずり上げられた無名の青年は、エジプトからは王朝の簒奪者と見られ、シリアからは忘恩の裏切り者と罵られた。
 どれほど戦果をあげようとも、否、あげればあげるほど、嫉妬と陰謀の濁流がいつも彼のまわりで渦巻いていた。聖戦から戻ってメッカ巡礼でもしようものなら、一武人の分際でイスラーム世界の勝利の王のつもりかと、全信徒の長を気取るバグダードのカリフなどは、ここぞとばかりに誹謗中傷してくるだろう。ケツの穴の小さい輩だ。まったく、けったクソ悪い連中だぜ。己の権威と地位を保つため、卑俗な言葉で貶めようと狙い定めてくる味方は、正々堂々と剣を振るう敵よりも始末が悪い。
 あの御方は剣で、俺はペンで戦い続けた。ヒッティーンやエルサレムが何だというのだ。敵はキリスト教徒などではない。あの御方と俺にとっては、このイスラーム世界こそが、生涯の戦場だったのだ。
 
―― エジプトへ帰ろう。
 
 あの日、あの御方は言われた。忘れもしない。長引くアッカの戦いでようやく和平を結び、ダマスカスに凱旋したあの日だ。
 
―― 最後にエジプトを離れてもう十二年だ。近いうちにおまえと一緒に帰ろう。
 
 その言葉が決してかなわぬことは、心のどこかで知っていた。今となってはすべてが、このかりそめの現世で見た一瞬の夢だ。だが、それはなんと痛快な夢だったろう。
 地上の言葉は語り尽くした。このペンで幾千もの文字を綴った。文字は翼をつけて全イスラーム世界を駆け巡り、後世に語り継がれる英雄伝説を地上に刻みつけた。だが今、あの御方に必要なのは天上へ導くコーランの言葉のみ。俺が法官として、書記官として、そしてもしこう呼ぶことが許されるならば友として、最後にただひとつできることは、かの偉大なる魂が肉体を離れるつかの間の、今宵一夜の静けさを守り抜くことだけだ。そんなことは、この俺にしかできないではないか。

 だが、カーディ・ファーディルはそのすべての言葉を胸におさめると、ただ一言、
「さっきの菓子は、うまかったぜ」
とだけ言うと、緑の長衣を翻して去っていった。闇に落ちる宮廷の廊下に響く足音が聞こえなくなるまで、小姓はじっとその場で床に伏していた。床は涙で濡れていた。

 その夜、ダマスカスの城のまわりに集まっていた民衆たちは、いつものように退出するカーディ・ファーディルの姿を見て、ああ、今日も大丈夫だ、何ごともなかったのだと胸をなでおろし、それぞれの家路についた。
 ファーディルは馬上の人となると、手綱を引き、まるで己の姿をことさら民衆たちに見せつけるように、ゆっくりと歩を進めた。
 闇の中、かすかに水音を響かせるバラダー川の流れに沿って、馬はファラジュ門からファラーディース門へ、サラーム門からトゥーマ門へと進み、いつしか東の果て、シャルキー門にまで来ていた。
 ここからさらに東へ向かい、郊外へ抜ければグータの森へと続いている。夜風が肌に冷たいが、それでもどこか春の匂いを含んでいる。森はもうすぐミシュミシュの白い花であふれかえるだろう。だが、今はまだ硬いつぼみを付けた木々が、からからと骨のような音を立て枝を揺らしているばかり。
 振り仰げば漆黒の闇の中、カシオン山がひときわ暗い深淵となり、息をひそめた巨大な獣のように横たわっている。夜のカシオン山は胎内に孕んだ我が子を守るように、この都をふところの内に抱き、幾千年の歴史を見下ろしていた。山はこの世とあの世を隔てる境界の地だ。どうか、かの偉大なる魂をその内に包みこみ、天上の国へと導いてくださるように。

 突然、コーランの章句がファーディルの胸に響いた。それは確かに、今宵スルターンの臨終の場に付き添い、一晩中コーランを詠みあげているはずの朗誦者シャイフ・アブー・ジャアファルの美しい声だった。

〈私は神さえいませば充分。ほかにいかなる神もない御方、私はこの御方におすがりする。この御方こそ大いなる玉座の主〉
(悔い改めの章129節)

 馬上のカーディ・ファーディルの頬に幾筋もの涙が伝っていたのを、民衆たちは誰も気づかなかった。法官はいつものように誇らしげに顔をあげ、春の夜風に長いターバンの裾を優雅にはためかせていたのだから。とめどなくあふれ出るものをぬぐおうともせず、声もあげず、ファーディルは城壁のまわりをゆっくりと巡り続けた。
          
〈終〉

ⓒSaya Nakamura 2024
初稿 2012 に加筆修正



◆サラディンとファーディルが登場する物語


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