【未公開原稿】ヒッティーン決戦前夜2
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夕刻、燃えに燃え盛った太陽が、さらに大地を朱に染めあげて没すると、まだ薄闇の残る空に白い星がいっせいに浮き出てきた。沙漠の夕暮れはつかの間だ。残照を反映させる木も、岩も、山もなく、道も家並みもない。海も川も湖もない。空も、大地も、一瞬朱色に染まったと思えば、次の瞬間、星が輝きだす。雲ひとつない夜空は、またたく間に星野の天蓋になる。
ティベリアスの野営地から、日没の礼拝を告げるアザーンが聞こえてきた。
礼拝用のテントは、すでに建ててある。礼拝を先導するシェイフやコーランを詠む者たちも何人か戦に同行しているが、アザーンは、兵士の中でも声に自信のある者が自主的に始める。そうすると、何人かがそれに続けて唱和する。
アッラーフ アクバル
アッラーフ アクバル
アッラーは偉大なり
アッラーの他に神なし
ムハンマドはアッラーの使徒なり
来たれ 礼拝へ
来たれ 繁栄の道へ
多くは礼拝用のテントへ出向き、食事番や警護などの任になるものは、それぞれの場所で礼拝用の小さなじゅうたんを敷いて、祈りを捧げた。
スルターンであるサラーハ・アル・ディーンは、礼拝用のテントの中、一番先頭の列に並んで、部下である兵士たちと肩を並べて礼拝していた。
ファーディルは、今晩の食事のメニューを確認していたらしく、厨房用のテントで礼拝した。
普段あれほど騒がしい、荒くれの兵士たちが、一瞬静まり返る瞬間だった。
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すべての礼拝の作法を終えると、ファーディルはてきぱきと立ち上がり、自分用のじゅうたんをくるくる巻いて、小脇にかかえ、中断していた料理のチェックを続けた。
「いいか、今日は最高の料理にしろよ。肉も、野菜も、食後のお茶とデザートまで、金輪際手をぬくんじゃねえぜ」
「まだ勝ってもいないのに、ですか?」
料理番のムハンマドは、不思議そうに聞き返した。
「おうよ、いいか、今晩のおまえさんの料理が、明日の戦の勝敗を決すると思いやがれ。敵さんは、今晩は粗末な非常食だけで、飢えと乾きの地獄の夜だ。一方こっちは、たっぷりのカバブとパンと豆のスープに酒ざんまいの天国だ。天使と悪魔が戦って、どっちが強いかね?」
「なんだか、悪魔的な発想だなあ」
「確かにね。今ごろあっちじゃ、神に救いを求める敬虔な子羊になってるだろうさ」
「あれ? でもいいんですか?」
「なにが」
「酒ですよ。出しても?」
「だめに決まってるだろうがよ」
「でも今、法官殿が…」
「俺が、軍規にそむくことなんぞ言うはずねえだろ。だから、そいつは空耳だぜ」
「わかりました、ちょいと酒もまぜときます―――これはあたしの独り言で」
「どうしたわけか、酒飲んだ方がふだんより冴える奴ってのがいるだろ。そいつらにだけ、そっとな。まちがっても酔いつぶさせるんじゃねえぞ―――って、えらそうな命令口調だけど、これは俺の独り言だ」
調理用のテントはいくつか専用のものをつくってあったが、どうしたわけか、ファーディルは、わざわざ外で焚き火をして、そこで肉を焼かせた。休憩中の兵士たちから順番に、串焼き肉を受け取っては、思い思いにかぶりついてゆく。焚き火を囲んで、あちらこちらでおしゃべりをする男たちの輪ができる。
ここにいる兵士たちは、ダマスカス、ハラブ、エジプトから、各地の領主であるアミールたちが率いてきた混合軍なので、自然と同郷の者どうしで集まり、くにの言葉で話している。いくら戦場とはいえ、気のおけない仲間が集まり焚き火を囲めば、なかばお祭りのような気分になり、中には故郷の歌を歌ったり、ダンスをしたりする者たちも現れる。ただし、護衛の当番にあたっていた者は、この野営地をどの方角から攻められてもいいように、しっかり守っていた。
「おい、どうだ、盛り上がってるか?」
と、ファーディルは、あちこちの輪に加わって、声をかけた。
「法官殿。戦の前に、このようなごちそうにありつけるなど、夢にも思いませんでした」
「それは、スルターン、サラーハ・アル・ディーン殿のおかげだ。われらの主君は、おまえたちにしっかり力をつけてもらって、明日の決戦に備えよとおおせだ」
「われらがイスラームのスルターン万歳!」
「万歳!」
皆が高揚して声を張り上げたところに、ファーディルはたたみかける。
「とりあえず、明日の戦で死んだって、最後にこれだけ食えりゃ、思い残すことねえだろ」
わあっとあちらこちらから爆笑の渦が起こる。
「もっともだ。天国から天国への直行便ってわけだ、こりゃだまされたな」
「わっはっは」
「ところが皆の者、見るがいい。あの沙漠のむこうに、フラングの奴らがいる」
ファーディルは、闇だけの空間をまっすぐに指差して大声をあげる。じゅうじゅうと旨そうな音をたて、香ばしい匂いのする焚き火の煙は、そちらの方へ向かっていた。夜になると、涼しい風が湖の方から西の沙漠に向かって流れ出す。
次第に、ほかの輪の連中もファーディルの声に耳を傾けだす。
「奴らは今晩は、肉もねえ、野菜もねえ、わずかなパンぐらいはあるだろうけど、一滴の水もねえ。パンなんぞ食っちゃ余計にむせかえるから、ほとんど飲まず食わずの長~い夜だ。なんのためだ? これが神のための戦いか? 栄光のための戦いか? 俺ならそんな夜は一晩だってごめんだね。だが、アッラーは、われらを生かしてくださる。このたっぷりの肉も、豆も、パンも、ショルバ(スープ)も、われらがスルターンを通して、アッラーがお恵みくださったものだ。アッラーフ アクバル! アッラーは偉大なり」
「アッラーフ・アクバル」
「アッラーフ・アクバル!」
神を称える声は、どんどん広がってゆき、いつしか焚き火を囲むすべての男たちが唱和し始めた。
沙漠では、なにも反響するものがない。声は煙とともに夜空にまいあがり、どこまでも伝わっていった。
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宴がすっかり盛り上がったころ、ファーディルは、そっと輪をぬけだした。
ファーディルは、もの言わぬスルターンに代わって軍中に檄を飛ばし、おかげで全軍はもはや勝利は疑いなしとの雰囲気がみなぎっていた。
が、実をいえば、このときイスラーム側は、あらゆる意味でぎりぎりの状態に置かれていたのである。
第一に、ここは敵地のまっただ中であった。決戦に敗れれば退路はなく、捨て身で敵地を突破するしかない。万が一突破できたとしても、その先にはガリラヤ湖がある。敵に打たれるか、湖に追い落とされるか、二つに一つの死に方しか選べない。
第二に、キリスト側とイスラーム側では、戦う意味が違っていた。
キリスト教徒のフランジュにとっては、パレスティナは武力で奪い取った新天地である。そこに安住の地を見出すには、たえず戦い続けなければ、いつまた奪い返されるとも限らない。また、こちらの方がより重要であろうが、そのように「たえず戦い続けなければならない」という強い意志を示した者こそが、王者として民衆に支持されたのである。となると、フランジュの王は、自らの王位を確固たるものにするためには、たえず敵と戦い、勝ち続ける必要があった。
一方のイスラーム側は、自分たちの父祖伝来の地を奪われたわけだから、奪還する権利がある。が、このイスラーム軍は、エジプトとシャーム、さらにその先のイラクの方から集まってきた義勇兵たちで、民族もアラブ、トルコ、クルド、アルメニア、スーダンにベドウィンを加え、互いに言葉も通じない混合舞台である。フラングによる虐殺で犠牲になった同胞への同情はあったとしても、本音を言えば、パレスティナや聖地エルサレムが奪われようが、取り返そうが、自分たちの生活に直接影響のない者たちばかりである。多くの軍勢がサラーハ・アル・ディーンのもとに馳せ散じたのは、スルターンに恭順の意を示さざるを得ない属国の政治的な判断だった。また一人ひとりの兵に関していえば、何よりも恩賞金のためである。このような日和見主義者たちの混合軍だから、勝算のない争いに命をかけるほどの騎士道は到底もちあわせていない。
もちろん、全軍を指揮するサラーハ・アル・ディーンは、このどちらも承知していた。
「ファーディルよ」
前夜、主だった将軍を集めた軍議がひけたあと、スルターンはもっとも信頼するカーディに呼びかけた。
「明日は、一刻で雌雄を決しなければならない。有象無象の連中を相手にするのは、それぐらいが限度だろう」
ファーディルは思わず声を出して笑った。いつも美しい正則アラビア語を使うスルターンがウゾウムゾウなどという俗語を使ったのが、場違いでおかしかった。それに、その《ウゾウムゾウの連中》というのが、フランジュのことではなく、イスラーム軍の方を指していることも、ファーディルは承知していた。
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兵士たちのテントを離れると、そこにはオアシスの果樹園がある。もう春の花は終わっていたが、闇夜の中でざわざわと木の葉が音をたてている。その音は、潮騒に似ていた。といっても、ファーディルが思い出す海は、エジプトのナイル河だ。海ではないが、「海」と呼ばれるにふさわしい大河だった。夏の夜、ナイルの河岸に吹く風が、両岸の高木をゆらしていた。まるで初夏の熱を吸い上げたような、真っ赤なジャカランダーの花が、ざわざわと風に揺すられ、さざ波のような音をたてる。
「法官殿ともあろうものが、ずいぶんなはしゃぎようだな」
ふと木陰から声がした。姿は見えないが、その皮肉っぽい口調ですぐにわかる。ファーディルは、わざと馬鹿丁寧な口調で応じた。
「これはこれは書記官殿、もう召し上がられましたか?」
「この年になると、肉がそれほどうれしくはなくなるもんじゃ」
暗闇からぬっと現れたのは、六十を越えたぐらいの、威厳のある男だった。黒い着物に黒い上衣をはおり、武器はいっさいつけていない。普段はカーティブ(書記)のイマード・アル・ディーンという美称で呼ばれているが、親しい者はアールフとペルシャ風の愛称で呼ぶこともある。もっとも、この名で呼ぶのは、軍中ではファーディルただ一人だったが。
「へええ、爺になるってのはそういうことかい、今のうちにたっぷり食っとこ」
「だれが爺だ。おまえも十年もたてば同じ身の上になる」
「まあ、そん時考えるさ。アールフ、ちょいとそのへんに、座るかい?」
二人は、木陰に並んで腰を下ろした。そこから見ると、ちょうど晩御飯の焚き火が少し離れた正面に見える。ファーディルはそちらを軽くあごでしゃくりながら言った。
「で、俺はただ、はしゃいでたわけじゃねえ。これも仕事のひとつよ。目と鼻の先で飢えと乾きに苦しんでいるフラングどもに、こっちの豊かさと意気揚々なところを存分に見せ付けろというスルターンのご命令だ」
「フラングじゃねえ、フランジュと発音しろ」
「うわ、あぶねえあぶねえ、軍中でいちばんアラビア語の文法にうるさい教授だったな、あんたは。だけど、これはこれで長い歴史をくぐりぬけてきた輝かしいエジプト方言だぜ。放っといてくれ」
いつものように、関係ないことをべらべらとまくしたてるファーディルだったが、遠くの煙を見ながら、ふと笑った。
「なにがおかしい?」
「いや、だって、考えてみたら笑えるじゃねぇかよ。あんたは、ペルシャ人なのに、今世界中でいちばん美しいアラビア語の文章を書けるのはあんただ。俺を除けばの話だけどね」
「おまえの文章は宮廷の文書ではないか。歴史を物語としてつづる、わしの文章とは違う」
「宮廷の公式文書には、それはそれでお役所用の美文ってやつがあるんだよ。自由に書ける文章とは頭と腕のふるいどころがちがうのよ。制約があるからこそ、より優れた能力が求められるってなもんだ。俺だって、自由に書けるなら、言葉のひとつひとつに鳩の群集みてえな無数の翼をばたばたばたばたくっつけて、遠くインドへでも、スィーン(中国)へでも飛ばしてやらあ」
「ささ、その言葉遣いがいかん。そのやくざのような口調で、美文なんぞ書けるものか」
「しゃべるのと書くのはまた別さ。あんただって、あんなに流暢な美文を書くくせに、しゃべると訥々としてるだろ。まあ、見てな。そのうち、歴史家の先生が腰ぬかして目ェ飛び出すようなものを書かんともかぎらねえ」
「若僧は自分を認識できぬから厄介な存在だ」
「おいおい、若僧はねぇだろ。もう五十を越えてんだ」
「わしより若い輩はみんな若僧じゃ」
「はん、それでいくと、スルターン・サラーハ・アル・ディーンも若僧かね?」
少し遠くでわあっと騒ぐ声が起こった。誰かがはしゃいでくだらない踊りでもしているらしい。笑い声と、焚き火の音がいよいよにぎやかにさざめいている。
遠くの灯りを見ながら、ファーディルは言った。
「だけど、先生。あんたは、こんなふうに考えたことはないか? どんなに偉大な英雄が世界を切り開こうとも、それを記録する人間がいなけりゃ、歴史は存在しねえ。戦いも、人生も、記録がなければ無と同じさ。同じ風景を見ても、優れた書き手と劣った書き手とじゃ、まるで違う様相として描かれる。一人の人間の人生を語るときも、書き手の意志によってはいくらでも変えられる。俺たちは、この腕一本で、聖人君主を野心にとりつかれた暴君に変えることだってできるんだ。その気になりさえすりゃいつでもね」
「ファーディル、おまえ……」
アールフは、ペルシャ人らしい繊細さで、ファーディルが何かいつもと様子が違うことに気づいた。
「おまえ、何か……企んでおるのではあるまいの?」
アールフの皺の奥からのぞく灰色の目に見据えられて、ファーディルはハッと我にかえった。大げさな身振りで伸びをすると、パンパンと尻の砂を払って立ち上がった。
「さあて、そろそろ解散させてくるよ。あんまりはしゃいで明日にさしつかえるんじゃ目も当てられねえ」
そして、アールフの方を振り返って。
「ああそうさ、俺は企んでるさ。明日はまちがいなく、歴史に残る決戦になる。あんたと俺の筆で、名勝負を後世に語り伝えようぜ」
そう言って、さっさと歩き始めたが、一度振り返って、
「だけどあんたの文章、ちょっと修飾語、多すぎるぜ。装飾文体も度を越すとイヤミだぜ」
と、しっかり、捨て台詞で茶化すのも忘れなかった。
アールフは、そんなファーディルの後姿をじっと見ていた。
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