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【未公開原稿】ヒッティーン決戦前夜

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 一頭の早馬が駆けてくる。
 七月ともなれば、パレスティナの砂漠は灼熱の荒野となる。
 騎手が手綱を引くと、馬はひとつ大きくいなないて止まる。野営の準備をしていた兵士たちは、舞いあがった砂ぼこりで一瞬何も見えなくなり、あちらこちらでひどく咳きこむのが聞こえた。
「ロバめ、本陣につっこむ奴があるか、ふもとで減速してから来やがれ」
 馬に向かってロバというのも妙だが、アラビア語で「ヒマール(ロバ)」は、ろくでなしに対するののしり言葉だった。
 数人の小姓たちがすばやく駆け寄る。ある者は馬に水を飲ませ、ある者は馬上の騎士に水を浴びせる。砂漠の太陽に晒された鎧がじゅっと音をたてる。小姓がさしだした皮袋の水を、騎士はしばらく息もつかずにごくごくと飲みほした。口のはしから水がこぼれるのもおかまいなく、ひたすらに喉をうるおす。
「……スルターンは?」
 息をつきながら、騎士の声はかすれていた。
「仮本陣の方に。ご案内いたします、こちらへ」
「アーミルだ」
「アーミルが戻ってきた」
「おおい、どうだったんだ、敵さんのご機嫌は?」
 まだ咳きこみながらも、仲間の兵士たちは、騎士アーミルが持ってきた知らせを聞きたくてしょうがない。設営の手を休めて、騎士を取り囲む。その知らせによっては、今日明日の自分たちの運命も決まる。全速力で陣中につっこむぐらいだから、急を要する知らせであることはまちがいない。
「待てよ、まずはスルターンにご報告を」
「吉報か、凶報かだけでも、教えろよ」
「そうだ、それによっちゃ、天幕作りにも張りが出るってもんだ」
「張りがなきゃ、立つものも立たねえしよ」
「まったく、くだらんこと言ってら」
「で、どうなんだ?」
「“すべてはアッラーのみぞ知りたもう”。もう行くぞ。あとでスルターンからご命令があるだろうさ」
 アーミルは、押し寄せる仲間たちを半ば強行突破でかき分け、その場をくぐり抜けた。
 
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 高台になっている奥の方に、木組みで急ごしらえされた本陣がある。兵士たちのテントは簡易な布張りだが、総大将のスルターンの居住だけは、堅牢な木で守られている。砂漠では建材に適した木などそうそう手に入らない。本陣用の木材は、遠征の間中、ほかの兵糧や水などと一緒に運ばれている。必要とあらば、わずか一刻で組み上げ、戦いが終わればまた解体して、次の戦に備えることができた。
 しかし、内側は布の天幕と変わらない。中では天井の筋交いから大きな布を幾枚も吊り下げて、いくつかの部屋に分けている。扉だけは木でできているが、開くとすぐに、最初の布が行く手を隔てる。その布をめくり、さらに幾枚もの布をかき分けながら進むと、一番奥にスルターンの玉座がある。ここまで足を踏み入れられる人間は限られている。当のスルターンと、各部隊の将軍たちと、スルターンに仕える宰相たちだけである。
 アーミルは、布をめくるごとに高鳴る胸をどうしようもなかった。
 最後の布の一枚手前で、剣を持った護衛の兵士に両側から遮られ、その場で平伏した。
「サラーム・アレイクム、あなたに平安を」
 肩膝をつき、右手を胸と額に当てて、アーミルは挨拶した。
「アレイクム・サラーム。あなたにも平安を」
 布の奥から姿なき声が聞こえた。
「おい、頭を上げな。楽にしていいからよ」
 荒っぽい口調で声をかけたのは、玉座のスルターンではなく、側に控えているもうひとりの男だった。玉座の布を向こう側からめくり、男は姿を現した。その出で立ちはと見れば、緩やかなドレープと繊細な文様をあしらった上衣をまとい、金と緑の糸で折り上げた帯を腰の低い位置でしぼり、短剣を一本たくわえている。形ばかりの護衛用の剣で、実戦向きではない。頭には白いターバンと柄の入ったターバンを二重に重ねて巻きつけており、洒落っ気を出している。とても戦場の本営とは思えない、優雅なスタイルである。
 宮廷人であれば、その身なりを見ただけで、すぐにわかる。彼がうわさのカーディ(法官)であり、スルターンがもっとも信頼を寄せている側近であることを。もっとも、正装の官服など知らなくとも、軍中のほとんどの人間は、彼の顔を直接知っていた。
 カーディといっても裁判官ではない。あらゆる統治を行うスルターンの秘書役であり、参謀でもある。政務から軍事、徴税から立法、宗教的行事から教育まで、すべてを決定しているのは最高権力を持つスルターンだが、いざ実行に移すとなると、このカーディを通さないことには何ひとつ動かない。それだけではない。それぞれの兵士たちに月々いくら給料を払うか計算したり、戦の後の恩賞金などを管轄するのも彼だった。さらに、スルターンの好物や苦手な物を知り尽くし、遠征に必要な兵糧の調達方法や料理の献立にまで口を出し、どこどこの市場で卵と野菜を買えとか、軍旗はどこどこの職人に作らせろとか、そんな細々したことまで一切を取り仕切っているのだが、ここまでするのはもはやカーディの役職というよりは、彼自身の趣向かもしれない。

 そのような訳で、軍にいれば兵士であろうと、調理番であろうと、荷運びだけの雇われ人であろうと、一度は彼と関わらないわけにはいかない。
 カーディは宮廷に何人かいるので、彼も普段はアル=カーディ・アル=ファーディルと美称で呼ばれているのだが、たんに「カーディ」とだけ言ったときは、ファーディルのことであるとは、誰もが承知していた。
「で、どうだった? その目、その耳、全身で吸いとったことを、洗いざらいしゃべりやがれ」
 カーディ・ファーディルは、五十歳を超えたばかりといった年齢だが、その独特なしゃべり方はどこか人なつこく、どんな年齢、立場の人間でも、すぐにくつろがせるところがあった。若いアーミルも、いくぶん緊張を解いて報告し始めた。
「は、はい、申し上げます。本日早朝に、フランジュの軍はサッフリーヤの町を出陣しました」
「ほう、この暑いのに、そいつはご苦労なことで」
 ファーディルは、とても参謀とは思えぬ返事をした。
「進路は」
と聞いたのは、スルターンだった。
 玉座に座る人間は、王者だが同時に戦士でもあった。見事なバグダード産の陣羽織を肩から羽織り、頭のターバンには各地から献上された宝石を散りばめた贅沢な飾りがついてはいたが、ひとたび上着を脱げば、すぐに戦陣に出られる鎧を内側に着込んでいる。腰にたくわえているのは、この時代最高峰のダマスカス鉄を打った名刀で、こちらは文官のファーディルと違って、人の血を幾度も吸ったことのある歴戦の剣だった。
 スルターンは、ファーディルとは打って変わり、低い静かな声で、必要な言葉だけを発する。威圧感はないが、その穏やかさが逆に、応える者を身構えさせる。なるほど、王者の声とはこのようなものか、と騎士は思う。
「は、はい。まずサッフリーヤから街道を北上し、その後東へ向かい、砂漠の間道を通っています。ここ、ティベリアスへの最短距離をゆく進路です」
「兵力は」
「騎馬およそ一万、それぞれに歩兵を従えておりますので、その数は二万あまりかと」
「二万! そいつァまた、大盤振る舞いだねえ、よっぽど烏合の衆をかき集めたとみえる」
 またしても、スルターンの御前とも思えぬ台詞を言ったのは、ファーディルだった。おそらく、スルターンが持つ静かな威厳にいささかも圧倒されないのは、この男一人きりだろう。
 さらにスルターンは、敵の所有している武器や運んでいる兵糧や水の量まで、無駄のない言葉で淡々と聞き、優秀な伝令は緊張しながらも、そのすべてに的確に返答し、さらにファーディルがいちいち腰が砕けるような合いの手を入れていった。
「あの」
 もはや見聞きしたことはすべて話したと思ったとき、アーミルは、おずおずと言った。
「これは吉報ですか、凶報ですか? 外で連中がうるさいもので」
「さあてね、あんたはどっちだと思うんだ?」
 ファーディルはにやりと笑って聞き返した。
「え? わ、わたくしですか? 恐れながら、二万とは予想以上の大軍、兵力のみを比すれば、われわれよりやや勝っております。その敵が、最短の行程を行軍中となれば、遅くとも数時間でこちらに到着する計算でありますから、早くて本日の昼過ぎには決戦の可能性が―――」
「つまらんねえ、あんたの話は」
「はあ? つ、つまらんとは」
「おもしろくもなんともねえだろ、そんなんじゃ」
「お、おもしろくないと言われましても」
「だったら、ちゃんと言ってやらぁ。平凡な読みだっつってんだよ。だけど、敵の大将サンも、今のあんたとそっくり同じことを考えているだろうさ。おまえは、敵の大将程度には頭がいい。もちろんその程度じゃ、このイスラーム連合軍を率いるのは無理だがね。さあ、戻って皆に伝えろ。『こいつはまぎれもねえ凶報だ。だが、陣中に我らがスルターン、勝利王サラーハ・アル・ディーンがいる限り、この凶報を奇跡の吉報に変えてみせる』とな」
 決め台詞を放ってきびすを返すと思いきや、ファーディルは再びくるりと戻ってきて、騎士に向かって言った。
「あ、そうそう暑かっただろ? こんな陽射しの中、砂漠を突っ切る奴の気が知れないねえ。頭の中、いかれてるよ、まったく」
「わ、わたくしのことですか? わたくしはカーディのご命令で」
「まさか。フラングの方さ」
 ファーディルはエジプト育ちなので訛りがあって、Jが発音できず、フランジュではなく、フラングと呼ぶ。それはヨーロッパのキリスト教徒たち、後に言う十字軍の呼び名だった。
 ファーディルはエジプト方言でさらに続けた。
「おまえは大手柄だ。シャルバートひとすくい飲んでいいからよ。本来はスルターンにしか許されない贅沢品だが、特別だぜ。みんなには内緒にな。それもこれも、ハムドリッラー、アッラーのおかげだ。さっそく厨房の天幕に行って、料理番のムハンマドに言いな。奴は遠征の間中、命がけでシャルバートを守ってるんだが、カーディ・ファーディルの許可が出たって言やあ、氷室から出してくれるだろうよ。だがよ、小さいスプーンでひとすくいだけだぜ」
「はい、まことに恐悦至極に……」
「それと、おまえは設営を手伝わなくていいから、午後は昼寝をとりな。昼寝用のテントは、とっくにできてる。この本陣よりも早くできたはずだ。なんたって、夏の砂漠の戦いで必要なのは、勇気でも剣さばきでもねえ、たっぷりの水とたっぷりの休息だからな。テント職人のアリー親父に聞きゃ、案内してくれるぜ。おい、知ってっか? アリー親父はついこないだ故郷で初孫が生まれたそうだ。名前決まったかどうか、聞いといてくれ」
「……は、はあ。まことに恐悦至極に…? 存じます……」
「感謝するなら、アッラーとスルターンに。さあ、行きな」
 ファーディルには、ひとつ面倒な癖がある。
 彼は優秀な法官だったが、同時に、美しい韻を踏んだ文書を作成する美文家としても有名だった。溢れる知識と洗練された言葉で、格調高い文章をほとんど芸術品のように生み出す才能がある。文書は美文でも結構だが、その能力をふだんの会話にまで発揮されるとやや面倒になる。何せ言葉を操るのが巧みだから、あれこれと関係ないことを一時にまくしたてて、相手を混乱させるのがお得意なのだ。もちろん、本人は承知の上でやっているから始末が悪い。のらりくらりと相手を煙にまいて、相手が唖然としているその隙に、自分のペースに持っていく。彼の配下の者にとっては、ファーディルは確かに気のおけない上官ではあるが、腹の内では何を考えているかさっぱりわからない。
 アーミルは、首をひねりながら、ともかくは褒美をめざして厨房に走っていった。
 
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 彼がもたらした情報は、一見凶報にみえた。
 サラーハ・アル・ディーン率いるイスラーム側の兵力は一万二千で、現在ガリラヤ湖の西岸、ティベリアスという町の郊外ヒッティーンの村に宿営している。
 一方でフランジュ側、つまりヨーロッパから移民して王朝を立てたキリスト教徒側の兵力はおよそ二万。彼らはティベリアスから二・七ファルサフ、およそ十六キロメートル離れたフッサリーヤという町で兵を集めていたが、ついに今日の早朝、兵を動かしてティベリアスを目指している。
 ティベリアスは、この当時はキリスト教徒側の町だったが、イスラーム側が攻めて城を包囲し、攻撃をしかけたところを阻止しようと、二万の兵が動き出したわけだ。このままいけば、イスラーム軍は砂漠の真ん中で両側から挟み撃ちにあうことになる。そして、もし敗れれば、湖と敵地の真っ只中に取り残されてしまい、脱出すらできない。機はこちらにあり――と、キリストの一軍は陣地を出発したのだ。
 
《だがこれは、この土地、この季節を知らぬ、よそ者たちの愚行だった》
 
 ファーディルは、カーディ用の天幕の中で、筆を走らせていた。
 彼は、自分が日ごとつむぎ出している文書が、歴史に残る貴重な史料になることを充分に心得ていた。それは、イスラーム世界で最高の権力を手にしているサラーハ・アル・ディーンについて綴っている記録だからだが、それに加えて、自分の名文が後世まで残る価値があることも、この男は信じて疑わなかった。
 筆は続く。
 
《彼らは知らぬ。この土地に照りつける太陽を。彼らは知らぬ、この大地が懐に宿している水の声を。砂漠での戦いは、水場を離れた方が負けだ。ひるがえって言えば、相手を水場から離れさせた方が勝利を手にするのだ。
 偉大なるスルターン、われらが主君、勝利の王、『宗教の公正』の名をもつ戦士、サラーハ・アル・ディーンよ。あなたの目は遠く見えないものも見通し、まだ起こっていない未来を確かに見る。あなたこそは、神が我らがイスラームの信徒、ムスリムに使わした黄金の剣。神よ、彼をしてイスラームの名誉を守らせたまえ。かの王者にして勇者なる御方は、こう言われた。『我々が勝利するのではない、真の勝者はこの大地そのものだ』と》
 
 本陣を出て、丘の上からふもとを見下ろしながら、スルターンは言った。
「百年前、奴らは遠い西の国から群れをなして押し寄せ、この地を奪った。しかし、奴らはこの土地を知らぬ。わずか百年足らずでは、この土地の真の姿は知りえない」
 スルターンは、一言ひとこと、明晰なアラビア語で言った。 
 見渡せば、野営地のまわりには青々と草原が広がり、泉や川のほとりには、オリーブの木や真夏の果樹をつけた高木がそよいでいる。しかし、ぐっと視線を遠くにやると、そこには転々とする草むらや小さな林があるだけの荒野が開けている。そして、その荒野のさらに向こうには、灼熱の砂漠に向けて進軍を進めている、二万のフランジュ兵がいるはずだった。
 スルターンは、表情ひとつ変えずに、ゆっくりと続けた。
「われらの兄弟は永くこの地に住み、その父から、祖父から、そのまた祖先から、何世代にも渡って、この土地での暮らし方を学んできたのだ。それは、百年やそこらで奪えるものではない」
 
 ファーディルはスルターンの言葉を思い出しながら、しかし大いに脚色を加えながら美しいアラビア語で書き続ける。

《スルターンは言われた。これは、この土地を知る者と知らぬ者との戦いにせねばならぬ。それが、この土地を奪われた者の哀しみ、この大地を支配する者の愚かしさを奴らに知らしめる、唯一にして最良の方法だ。彼らは、我らの武力に屈するのではない。この土地を知らぬ、己の無知ゆえに負けるのだ、と》
 
 そのためにスルターンはすでにあらゆる策を使っていた。
 まず、ティベリアスの町を攻めるべく、軍を集結させた。各地からアラブ・トルコ・クルド人たちの連合軍が戦に加わった。それは、敵をおびきよせるための策だった。ティベリアスの城には、フランジュのレイモン将軍の妻がいた。フランジュはサッフリーヤという、地中海に近い要衝の地にいたのだから、断じてそこから兵を動かすべきではなかったのだ。だが、彼らはこの真夏にもかかわらず、重装備の大群を、砂漠のどまんなかに追いやったのだ。レイモン将軍の妻を救うために? いや、後の記録によると、ただひとり、レイモン将軍だけが、断じて進軍すべきではないと主張したという。この地に長く住み、スルターンとも親交のあったレイモンは、スルターンの意図を充分に見抜いていた。強行突破の決定を出したのは、無能なエルサレム王ギー・ド・リュジニャンであり、それを支持したのは、たびたび休戦破りの略奪をくりかえしている、ヨルダンの騎士ルノー・ド・シャティヨンだった。
 
《それが、彼らのいう神のご意志か? 否! 彼らは自らの栄光のために出陣したのだ。砂漠のおそろしさも知らずに。
 われらがスルターンは違う。彼は栄光や名誉を望んではいない。彼はいつも、何も求めない。何も欲しない。ただ、この大地で生きてきた人々の、救いを求める声を、その寛大なお心と偉大なる勇気とで受け止めてきたのだ》
 
 サッフリーヤから戻った伝令の報告を聞いたサラーハ・アル・ディーンは、主だった将軍たちを集めて、わずかな指示を与えるだけで充分だった。
 敵軍の一部をめがけて、奇襲をかけること。ただし、戦闘にもちこんではならぬ。敵軍の足取りを乱すだけで、さっさと離脱すること。それを何度も、不定期にくりかえすこと。
 うだるような暑さの中、重装備で行軍していたフランジュの兵士たちは、しだいに判断力もにぶってきて、突然現れては去ってゆく奇襲にまんまとゆさぶられ、みるみる隊列をくずし始めた。早朝に出発した軍は、ティベリアスに着くどころか、半分もいかないうちに隊列がのびきってしまった。行けども行けども続く灼熱地獄で倒れる者も続出し、中には戦線を離脱してサッフリーヤに戻ろうとする隊もある。が、またしてもあらわれたイスラーム軍の奇襲兵が退路を確実に絶っていく。
 そして、あまりの暑さと乾きに耐えかねて、体力も気力も果て、もう一歩も行軍できなくなったところで、総大将のエルサレム王は、命令を全軍に発した。ティベリアスをめざすのは明日に延期、今宵はこの場で野営をすると。
 ファーディルは、伝令からの報告に加え、多少の自分の意見も加えつつ、折にふれて筆をすすめた。
 
《なんたる暴挙! 砂漠を少しでも知る者なら、そのような愚かな判断などしようもない。水場のまったくない荒野のどまんなかで一夜を明かすなど》
 
 しかもフランジュ軍は、正午にはティベリアスに着くつもりだったから、水や食料の補給もほとんど準備していなかった。フランジュの兵士たちはあまりの乾きに耐え切れないほどだったが、一番近い水場は、なんとイスラーム軍が本陣をかまえているこの場所なのだ。水を請えば、すでに敗北したも同然だ。
 
《そして、スルターンの意志はかなえられる。彼らは戦に破れるのではない。この土地を知らぬ自らの愚かさに屈することになる》
 
 
 すらすらと書き綴っていたファーディルは、ふと自分が書いた文章に目を留めた。

《われらがスルターンは違う。彼は栄光や名誉を望んではいない。彼はいつも、何も求めない。何も欲しない。》
 
 自分の書いた文字の上を、葦を削ったペンの頭で二度、三度叩いてみる。叩きながら、いつしか物思いに沈み、ぼんやりと空を見つめた。いつも陽気なファーディルのこんな表情を見ることができる人間は、軍中には一人もいない。
 スルターンとファーディルはもう、二十年来のつきあいである。三十から五十にかけてのほとんどの日々を共に過ごしている。二人の間には、自他共に認める強い絆があった。でありながらファーディルは、スルターンが誰よりも遠い存在に感じることがあった。
 
 スルターンは何も欲しない。栄光も、名誉も。
 それはおよそ、今までの王者とは異なっていた。
 ぬるま湯のような宮廷文化に浸っていたカリフと違い、実力でのしあがってきたスルターンたちは、全身に威厳と膂力をみなぎらせ、その叫び声ひとつで何万の大軍を率いる力があった。
 だが、サラーハ・アル・ディーンは、その誰とも違う。 
 身体は小柄だったし、瞳は涼しげに澄んで、物腰も穏やかであり、戦士というよりは学者のような知性を感じさせた。
 彼は軍中にいてさえ、静かに一人で書物を開いたり、木陰で瞑想することを好んだ。
 彼は何も欲しない。栄光も、名声も。
 そんな人間が、本当にいるだろうか? 
 この乱世、何万、何十万の人間がひれ伏す玉座を手に入れ、すべての栄光をほしいままにしながら、それでも、一人で本を読んでいる方が幸せだなどという男が?
 
 誰が思ったろう? このような男が、イスラーム信徒をひとつにまとめるなど?
 イスラームの戦士たちは砂に似ていた。硬く握り締めれば強く結束するが、ひとたび手をゆるめると、一瞬で雲散霧消して、跡形も残らない。
 誰が思ったろう? かつてのカリフも、スルターンも、将軍たちも、誰ひとり成し得なかったことを、この目立たぬ一武人が成し遂げるなど?
 それは、二十年前、初めてスルターンに会ったファーディルも、予想すらしていなかった。

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 初めての出会いは、ファーディルが三十歳を越えたばかりの頃で、ユーセフは彼より二つ三つ年下のようだった。ユーセフというのは、サラーハ・アル・ディーンの本名である。
 ユーセフは、シャーム(シリア)からエジプトに派遣された軍隊の一兵卒だった。5千の大軍を率いているのは、ユーセフの叔父シールクーフであり、なるほど彼は歴戦を勝ち抜いてきたと一目でわかる将軍だったが、その横に控えているユーセフなど、まるで目立たない男だったのだ。おそらく、叔父の七光りで同行させてもらったのだろう、とファーディルは遠くから見て当たりをつけていた。
 事件が起きたのは、春の夜だった。
そろそろ砂嵐(ハムシーン)の季節だ。夜ともなれば、王城の門はすべて閂で閉ざされ、もはや出歩く者もいない。時おり生ぬるい風が唸り、館の窓には砂がパラパラと当たって音を立てた。アル・カーヒラ(カイロ)と呼ばれるこの都は、ナイル河の東岸にある。反対側の西岸には、あのピラミッド群が点在するギザの砂漠が迫っていた。
 すでにカーディの地位を得ていたファーディルは、宮廷の一角にあるカーディの館で遅くまで書き物をしていたが、そろそろ疲れて薔薇水に手を伸ばそうとしたところ、扉がほとほとと鳴る音が聞こえた。
「誰だ?」
 ファーディルは、不審に思って聞いた。こんな夜更けに訪ねてくるなど、尋常ではない。
 が、返事はなかった。
 風音か、とふたたび薔薇水に手をやろうとすると、もう一度、今度は確かにたたく音がする。
 さすがにファーディルは腰をあげ、部屋の隅に置いてある剣を手にした。
 扉に身を寄せて、もう一度聞く。
「誰だ。名乗られよ」
 扉の向こう、闇の中から、囁く声が聞こえた。
「大慈大悲のアッラーの御名において」
 それは、ムスリムなら誰でも唱える祈りの文句だった。声は続けた。
「アリフ・ラーム・ラー・これは明白な啓典のみしるし――― 」
 それを聞いた途端、ファーディルはぴくっと反応した。扉をわずかに開く。
 扉の向こうに立っていたのは、全身、頭から黒い布ですっぽりと覆った人物で、かすかに開いた扉の隙間から、するりと中に入ってきた。ファーディルはすぐに扉を後ろ手に閉めた。
「よくぞ、私だとわかってくださいました」
 招かれざる客は、頭から黒い布をはずして顔を見せた。
「アリフ・ラーム・ラー。この言葉で始まるのは、コーランの〈ユーセフの章〉ですから」
 ファーディルは、警戒しながらも、丁寧に答えた。
「あなたは、コーランをすべて諳んじているのですか?」
 それは、文法的にまったく乱れのない、美しいアラビア語だった。おそらく、アラビア語とは違う言語の中で育った人間が、教育と努力によってあとから身につけたものだろうと、ファーディルは察した。
「残念ながら」
 ファーディルは、肩をすくめてみせた。
「ですが、ユーセフの章は少し変わっている。アリフ・ラーム・ラーという、みっつの謎の文字を連ねる言葉から始まっておりますゆえ、記憶にあっただけのこと」
「それにしても、私の名がユーセフだと、よくご存知でしたね。遠征軍の一兵卒に過ぎぬというのに」
「これでも、代々受け継いできた文官の家系です。一度でも記録に残した人物の名前はすべて記憶しております」
「なるほど」
「御用の向きなら、小姓でも遣わしてくださればよろしいものを」
「そうしたいところだが、こればかりはそうもゆきません。他の誰に知られてもならないのだから」
「おっしゃる意味がよくわかりませんが」
「すぐにわかります。どうか、私と一緒に来ていただきたい。ただし、護衛も侍従もつけず、あなたお一人で」
「どこへ」
「宰相の館へ」
「何故?」
「話はそこで」
「それは、宰相殿のご命令ですか?」
 ユーセフは少し考えているようだったが、穏やかに応えた。
「あなたが、私の命令では動いてくれないのだとすれば、叔父である宰相の命令だと申し上げましょう」
 謎かけのような問答だった。
 事情が何もわからぬまま、ファーディルは言われる通り外に出た。

⚔   ⚔   ⚔   ⚔   ⚔

 扉を開けると、生温かい春の風の香りがした。
 宮殿の脇にあるカーディの館から、シールクーフやユーセフがいる宰相の館までは、路地をふたつみっつ隔てただけの距離にあった。灯りもない闇の中、ざらざらとした砂が舞い散る土の上を、足で探るように歩いていった。
 宰相の館は、すっかり寝静まっている。門の両脇には衛兵が立っており、小さな松明を手にしていたが、ユーセフは衛兵に二言三言耳打ちし、何かを手に握らせてくぐり抜けた。噴水のある広間を横切り、脇にある小さな階段を登ると二階の居室に続く。長年、宰相に仕えているファーディルにとって、宰相の館は目をつぶっていても歩ける。ユーセフが導いた部屋が、宰相の寝所であることもわかっていた。
 部屋に入ると、ユーセフは扉の側にあったランプに火をともした。暗闇の中、ゆらゆらとゆれる灯りに照らされ、天蓋のついた豪華な臥所が見えた。
さらに炎を近づけると、ぞっとする光景が浮かび上がった。
 ファーディルは思わず息を呑んだが、さすがに声は出さなかった。
 そこには、シールクーフが―――わずか二ヶ月前にエジプト王朝の宰相に任命されたばかりの将軍が、もはや軍隊どころか、自分の指一本すら動かせぬ姿になって倒れていた。
 余程暴れたのか、あちこちをつかんだ形跡があり、服やシーツは破れ、寝所の脇にある水差しは粉々に割れ、近くにあった机や椅子は散らばっていた。
 顔には黒い布がかぶされていたが、ユーセフはそれをそっと取った。
 恐る恐る見る。 
 死人の顔は、見ているこっちがうなされそうなほど、凄まじい表情をしていた。皮膚はどす黒く、もはや血は通っていない。もともと巨漢で隻眼の猛将だった彼は、それだけで見る者を圧倒させる迫力だったのだが、それが今は口も目もかっと見開き、地獄を見たかのような恐ろしい形相をしている。
 ファーディルは、ユーセフを振り返った。
 ランプの炎が彼の顔の上に、ゆらゆらと影を落としており、表情を読み取ることはできなかった。
「医師を……」
 ファーディルは、やっと声を出した。
「もう遅い」
 ユーセフは淡々と応えた。
「毒殺? 一体、何者が……」
 瞬間、ファーディルの頭の中を、幾人もの人物の顔がよぎった。エジプトの王朝には、宰相の椅子を狙う人間はいくらでもいる。カリフの権威が地に落ちた今では、宰相こそが真のエジプトの王者であり、しかも身分にかかわらず武力で奪い取れる地位であった。
 ところが、ユーセフは意外なことを言った。
「いいえ、殺されたのではありません。叔父は、飽食で喉を詰まらせて亡くなったのです」
 ファーディルは、伺うようにユーセフを見た。
「そういうことにしておきましょう」
 ユーセフは、そう言って背を向けた。
「何故? あなたはシャームの人間だ。殺されたのはシャームの将軍で、しかもあなたの叔父上だというのに、何も追及なさらないのか?」
 ファーディルは思わず叫んだ。しかし、背中越しのユーセフの返事は穏やかだった。
「では、私はシャームに伝令を飛ばさねばならぬ。エジプト王朝の元で叔父が殺害されたのだと。シャームの王、われらが主君、ヌール・アル・ディーン殿が黙っているとお思いですか?」
 その名を聞いて、ファーディルは思わず震え上がる思いだった。今、シャームで広大な領地を率いているヌール・アル・ディーンの名は、エジプトでも高らかに響き渡っている。シールクーフは、そのヌール・アル・ディーンから遣わされてきた遠征軍の将軍だ。今のエジプトには、巨大なシャームを敵に回して生き残れる力などあろうはずがない。
 ユーセフは、そんなファーディルの心中を察したように、静かに言った。
「取り引きをしませんか、カーディ・ファーディル殿」
「取り引き?」
 ユーセフは、こちらに向き直った。
「今、シャームとエジプトで戦を交えるのは、私としても避けたいのです」
「たとえ、勝ち戦でも、ですか?」
 幾分挑戦的に、ファーディルは言う。返答次第では、目の前の男が、敵にも味方にも変わる。
「同じイスラームの信徒に戦いをしかけるのは、アッラーも禁じたもうところ。ただし、我らが主君が同じようにお考えかどうかは、わかりませんが」
 ユーセフは、あざやかに切り返した。
「ですから私は、主君ヌール・アル・ディーンには伝令を出しません。シャームの軍にも、叔父は飽食で亡くなったのだと報告します。叔父は大変な大食漢だったので、そんな死に方をしても不思議はないと、ほとんどの者が納得するでしょう」
「それで? その見返りとして、私に何をせよと?」
 ユーセフは、ちらりと窓を見た。暁まで間もない。夜明けの礼拝を告げる時告人(ムアッジン)たちが、そろそろ目を覚ます時刻だろう。
 ユーセフは、視線をファーディルの上に戻し、闇の底から囁くように言った。
「私を、次の宰相にしてください」
 暗闇に浮かび上がるユーセフの顔が、かすかに微笑したように見えた。

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ⓒSaya Nakamura
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◆続き

◆サラディン&ファーディルが登場する
 歴史物語はこちらもどうぞ
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