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私が尊敬する人

今朝、夢を見て起きた。
私の妹と弟、祖母と、叔父と叔母がいた。

リアルな夢で、呼ばれているような気持ちになった。

「なんだろう、この夢は?なぜ、こんな夢を見たんだろう?」なんて思いながら、朝のカフェラテを1杯飲みながら考えていると、曽祖父のことが鮮明に思い返されてきた。

曽祖父のことを思い出すなんて、珍しい。
なんだか、noteにまとめておかなければいけない気がした。

私の曽祖父

私が人生の中で尊敬する人の一人は私の曽祖父である。とても几帳面な人だった。83歳で亡くなる前日まで、親戚の人の家にぶどうと自分の山で採れた新鮮な松茸を持って、挨拶へ行っている。

そんな元気な曽祖父が、その翌日に亡くなるなんて誰もが思わなかったであろう。

私はよく曽祖父の家に遊びに行っていた。

私の家から車で15分程度の距離にある曽祖父の家は、私の母にとっては、幼い頃に過ごした、実家とも言える場所であった。

曽祖父の家はいつも綺麗に掃除がされ、整理整頓されていた。

私が遊びに行くと、曽祖父は笑顔で迎えてくれ、震えた手でお茶とお茶菓子を出してくれた。当時は、なぜ手が震えているんだろう?なんて思っていたが、今思い返すと、あの震えは、パーキンソン病だったのかもしれない。

それでも、綺麗に家の掃除をして、いつまでも元気に山に行き働いてた曽祖父の姿には、小学校低学年の私にも、すごい人なんだということだけは伝わってきていた。

曽祖父と山とカブトムシ

いつも夏休みになると曽祖父から電話があって、曽祖父の山へ遊びに行ったものだった。

そこでは、たくさんのカブトムシとクワガタを取ることができた。

そこで取ったカブトムシを家で育てて、繁殖していたのは、私にとってとても思い出深い小学校の頃の思い出である。

大きな、大きなカブトムシ。

そんな大きなカブトムシは普通に手に入るものだったと思っていたけれども、当たり前じゃないんだなってことに気づいたのは、曽祖父が亡くなってからのことだった。

2本のさくらんぼの木

曽祖父は山の手入れだけでなく、家の裏にある、さくらんぼの木の手入れもとても丁寧にやっていた。

さくらんぼの木を手入れするのは、本当に、本当に大変なことなのだ。

さくらんぼは、梅雨の時期になる果物であるにも関わらず、雨に弱い。そのため、梅雨の時期はハウスと呼ばれる、ビニールシートを被せた建物の中で栽培する必要がある。

しかし、そのビニールシートを被せるのは、一時期のみである。

1年中被せているわけでなく、収穫時期のみ、ビニールシートを被せなければいけない。そのため、その時期になると、さくらんぼの木を覆うほどの高さのある鉄パイプの上に登り、ビニールシートを被せる必要があるのだ。

それは、それは大変な作業で、若い人の力が必要なことなのだ。しかし、私の曽祖父は、きっと70代の後半まで、ずっとそれをやりながら、2本のさくらんぼの木を大切に育てていた。

そんなありがたみも知らず、幼い頃の私は、さくらんぼの時期が来るたびに、「ひいおじいちゃんのさくらんぼまだかなぁ」なんて思っていたのが思い出される。

突然の別れ

曽祖父との別れは突然だった。

享年83歳。私が小学校4年生の頃であった。

曽祖父の家に行くと、仏壇の前布団が敷かれ、そこに寝ているかのような曽祖父の姿があった。

涙は出てこなかった。

でも、曽祖父の娘である、私の大叔母が号泣しているのだけは、強く、強く覚えている。

私にとって、人生で初めて人の死と面した瞬間だった。

家には警察の人も来ていた。

というのも、祖父は家で亡くなったため、事件性がないか調べる必要があったからであるということだったらしい。

私の曽祖父が亡くなったのは、その前日のこたつの中でのことだった。

その日は、いつものように山へ行き、山で採れたものを持って、親戚の家に遊びに行き、夕方に帰宅後「ちょっと疲れたから横になる」と言って、こたつでうたた寝をするかのように、息を引き取ったのだ。

それはまるで、自分の好きなことを全うして旅立つ、ある意味、幸せな息の引き取り方だったであったと、私の記憶には残っている。

山の行方

曽祖父が亡くなって数年後、曽祖父の山を相続した祖父母が山を手放すことを決めたと、私に教えてくれた。

私としては、正直悲しかった。

そこは、私にとっての思い出の場所でもあるから・・・。

でも、確かに山の手入れは本当に大変なのだ。曽祖父が亡くなってからというもの、やっぱり祖父母には管理するのが大変で、荒れ放題となってしまっていたものだったから、私も納得せざるを得なかった。

でもあの山は、私の曽祖父が第二次世界大戦中に開拓団として満州へ行き、無事帰還できたということの対価として国から与えられた、曽祖父の努力の賜物であったことは、私の記憶にしっかりと焼き付けている。

あの山の場所はどこなのか、私にはわからない。
でも、あの山は私の思い出として刻まれている。

舗装された曽祖父の家

そして、その数年後、曽祖父の家は道路がかかることになった。

だから今、その家の形さえも見ることはできなくなっている。

昔あった2本のさくらんぼの木も、伐採され住宅街となってしまった。

でも、曽祖父の家にあった塀だけでは、小さく残っている。
その道を通るたびに、その塀を探しては、私の中に残っている、曽祖父の家とさくらんぼの木の姿を心に思い描いている。

曽祖父の死のなぞ

私の曽祖父はなぜ亡くなったのか?

実は、これは今も謎に包まれている。

私が昔聞いた話だと、曽祖父は心臓にペースメーカーを入れていて、あの日の夜にペースメーカーの電池が切れたため、心臓が止まり亡くなってしまったとのことだった。

幼い頃の私は、ペースメーカーという言葉を聞いたのも初めてで、曽祖父はペースメーカーの件で病院にかかっていたということを知ったのも、曽祖父が亡くなった後のことだった。

だから、そういうことがあるのか・・・なんて思っていた。

でも、事実は異なるようだった。

私が大人になり、久しぶりに曽祖父の話を母とした。

「ペースメーカーが止まって亡くなったんだったよね?」なんて気軽に聞いてみたら、母は口を閉ざして・・・

「そうだと思っているの?」と言われた。

「え?そうじゃないの?」なんて聞いたら

「いや、んー、まぁ」とはぐらかされてしまった。

その時、祖父の死因には、ペースメーカーが止まったということだけではない何かが、きっと関わっているのかもしれないと悟った。

でもそれは、知らない方がいいのかもしれないと思っている。

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