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いつの時代が本物か?


前回の続き。

売れっ子が売れっ子になる前の、瞳を輝かせていた若き日の日記を読んだ話の続き。

こういうものを読んだとき、「あの人にもあんな頃があったんだね」とか「こんなピュアだったんだね」みたいな感想は避けられないだろう。

例のダイアリーに限らず、付き合いが長い人にだってそう。幼なじみが高校や大学に出てちょっと不良になったとしても、「本当は優しい子なんだよ」と小学生の頃のほんわかエピソードを引きずり出してくるようなことってある。

幼ければ幼いほど人はピュアで、大人になるにつれて色んな考えのもと曲がってしまったり、強くなったり、さまざまな変化をしていく。それはみんなそう。
特に悪い方へ変わってしまった場合は、「"本当は"あんな子じゃないんだ」と語られがちだ。

じゃあ人間の「本当」の姿って、いつの時代のことを言うんだろう?


自分は自分のものさしでしか語れないので、例によって自分の話をするけど、
私は子供の頃は結構思いやりに欠けていた人間だったように思う。わがまま…にはならないようにしていたつもりだけど、大人になった今思えばモノをはっきり言い過ぎだったなとか、もう少し相手のことを考えるべきだったなとか反省することが多い。
そういう意味では、今より自分の意思をはっきり伝えるタイプだったかもしれなくて、大人になった自分からしたら羨ましい面もあるけど。
(もはやおばちゃんとなった今、違う意味での厚かましさを手に入れているという点は一旦置いておこう)

でもまあそういう反省を重ねて改善することを成長と呼ぶなら、ズケズケと生きていた子供の私も、反省して少しは角が丸くなった私も「本当の姿」だ。


全体的な中身は変わってないと思う。
なんなら私は幼い頃から斜に構えていたところがあるからなおさら。
でもやっぱり生きていると傷つけたり傷ついたり嬉しかったり悲しかったりしているうちに心は軌道修正していく。


大人になるにつれて心に貼り付けていった教訓を、玉ねぎの皮みたいに剥いで剥いで剥ぎとるうちに、その真ん中に現れる幼さが"本物"なのか?

それとも数直線みたいに横に伸びていく人生の、どこを切り取っても"本物"なのか?

幼なじみが思春期に不良になったとしても、それも長い人生の軌道修正の途中かもしれない。別にたぶんニセモノなわけじゃないんだ。
なんてことを思った。


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