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La Ferte-Milonの風景


ぼくは3人兄弟の末っ子だ。

確かに戸籍上はそうなのだけど、ぼくは一番上の兄ちゃんには会ったことがない。

会ったことがない、というのは同じ時代の空気を吸ったことがない、と言う意味で、兄ちゃんはぼくが生まれる1年前に亡くなった。病気、虫垂炎、いわゆる盲腸の診断が遅れたのだということを、折に触れ親はぼくに教えてくれた。数日のあいだ、痛い痛いと言っていたということと合わせて。

50年以上前の地方の小さな町の出来事。小学校五年生。遺影はあどけない男の子の笑顔だ。

2番目の兄はぼくを誰かに紹介するときには、特に親の法事などで会う遠い遠いぼくの知らない(そして多分兄も知らない)親戚にはぼくのことを『三男』という。兄は兄ちゃんのことをもちろん知っているから自分が次男だという意識は強いのだと思う。ぼくのことを『三男』だと言う度に、ん?と思い、すぐあとにそうだよね、と思う。

ぼくが生まれることに関しては父が強く望んだのだということは母から聞いた。母自身は反対だったらしいが、そんなことを言う本人には全く悪気はなく、息子を急に失った母親の喪失感はぼくも何となく理解できるから、特にそのことで拗ねることはなかったのだけど、つまり父が望まなければ、ぼくは生まれなかった。

かも知れない。

ぼくは兄ちゃんの生まれ変わりだとは思っていない。ただある程度の年齢になった時に、何か辛いことがあると、写真でしか知らないその顔を思い出すと少し気持ちが和らぐ、そんなことは時々ある。

いつか、そう、いつかその優しい笑顔に会えるのだろう。その時にはぼくは老人で兄ちゃんは小学生なんだろうか。

実家には仏壇があった。幼いぼくは時々母が白いクリームクレンザーで仏具を磨くのを手伝った。兄はあまり一緒にそれをすることはなかった。ぼくとは正反対の性格といってもいい兄は、いつも友達と外で遊んでいた。ぼくは家にいることが多かった。自分が幼い頃には深い考えが及ばなかったが、母にとってそれは自分の息子が幼くして亡くなったための仏壇なのだった。真鍮の仏具を磨くクレンザーは独特の甘いような化学系のような匂いがする。鶴の造形の燭台や香炉などを分解できるものは分解して新聞紙の上に並べ、古布にクリームをつけてその匂いを嗅ぎながら磨く。黒ずみが取れて輝きが戻る。今から20年前に転職した時に現場でそれと同じ匂いのする金属用のクレンザーが使われているのを知って、その嗅覚の記憶が懐かしかった。それが仏具を磨く時に使っていたものと同じ商品かどうかはわからないが、自宅用にひとつホームセンターで買った。

高校生の頃、居間に行くと母がテレビの前で涙を流していた。初めて目にする表情に何事かと思い、しかし話しかけることもできず自室に戻った。頃合いを計りもう一度居間に行き、さりげなく側に座ると、母は、変なとこ見せちゃったね、兄ちゃんが死んだ時に流行っとった映画だっただもんで、と目を腫らせてその訳を話してくれた。ぼくは、うん、そう、と頷くだけで言葉をかけることはできなかった。母が、少なくともぼくの見ているところで兄ちゃんのことで泣いているのを見たのは、後にも先にもその一度きりだ。

母の一周忌がおととしの暮れに兄の家で執り行われた。その家には母も住んでいたから実家と呼んでもいいのかも知れないけれど、数年前に建て替えられ全く違う雰囲気になってしまった。兄の家だからそれほど緊張する場でもないのだけれど、やはり実家とは言い難い。

その日、法事が全て終わったあと兄の家の仏壇のある和室で寛いでいると、兄が部屋の隅の大きな段ボール箱を指し、おふくろの部屋にあったものをまとめといたから、欲しいものがあったら持って行け、と言った。

中を覗くと、大量の紙類が雑に積み重ねられている。それを上から順に取り出していく。

上の方にあるのはぼくの通知表だったり、ぼくやぼくの子らが送った手紙だったり写真だったりした。妻と、こんなものとっておいてくれたんだなどと話しながら一つ一つもらうかどうか吟味する。どんどん掘り進めていくと意外なものが出てきた。兄ちゃんの遺品だった。日記帳。落書き帳。通知表。母子手帳。気持ちが不意に昂る。

段ボール箱からそれらを取り出し、他のものとは別の山にする。

通知表を開いてみると教師コメントには『男らしいところがなく』などと書かれている。今の時代ならそんなことは書かないだろうが、読みながらつい笑みが漏れる。ぼくのその頃も同じように書かれたからだ。『ひっこみがちである』。うん、ぼくもだ。兄ちゃんとぼくは似ていたのかもしれないな。優しい子だったよ、とは聞いていたが、そんな共通点があると余計に身近に感じられる。

次に日記帳を開くと、その日付からどうやら夏休みの宿題のように思われる。それほど上手とは言えない字だけれど、日々のさりげない出来事が方言を交えて綴られている。友達と宿題の工作をしたこと、海水浴に父と行ったこと、母の買い物に付いて行ったこと、晩ごはんの苦手なおかずのこと。

今まで写真でしか知らなかった兄ちゃんの姿がそこにある。

ページをさらにめくると、ぼくはあることに気が付いて、はっとする。慌ててノートを閉じる。兄に、本当にもらっていいのか確認する。こんな大事なものを、と言葉を添える。いいぞ、どれでも持ってけ。ありがとう、じゃあこれとこれともらうよ。

法事に参列したいとこたちからのお供え物のお菓子やフルーツなどを分けたものをもらったぶん、来た時よりもかなり膨れ上がった分量の荷物を提げて、また新幹線に乗って倉敷に帰ってくる。もうあたりは暗く、新幹線駅の近くにある王将で晩ごはんを食べ、それから車で自宅に戻る。部屋着に着替え、荷物を整理してからもう一度、落ち着いて兄ちゃんの日記帳を開く。

一日ずつ読み進めると、8月6日を最後に、そこから先は縦書きの罫線だけの白紙のページが続く。めくってもめくっても白紙のページが続く。

兄ちゃんは8月の半ばに亡くなった。数日間苦しんだのなら、その日以降はきっと書けなかったのだ。

それは兄ちゃんが亡くなった五年生のときの夏休みの日記だ。

母は人知れずこれをとっておいたのだ。もしかしたら時々、どこにしまっておいたのか、タンスなのか、本棚の端か、そこから引っ張り出し手にとって開いていたのかも知れない。そうしている母の表情は、今はもう想像するしかない。

もう一つ、落書き帳には自作の漫画が数ページにわたって鉛筆で描いてあった。

ここでもつい笑ってしまったのは、絵のタッチがぼくの息子が同じ年齢の頃に描いていたものとそっくりなことだ。

脈絡のあるような無いようなストーリー。ところどころに、は、っとするような表現力。

隔世遺伝なんだろうか。

大げさか。

兄ちゃんに、ぼくの妻や娘や息子に会わせたかったなと思い、いや兄ちゃん死んだからぼくがいるんだと、苦笑いともなんとも取れない表情を自分がしているのがわかる。

兄ちゃん、絵を描くのが好きだったんかな。倉敷に遊びに来たら大原美術館なんか連れてったら喜ぶかもな。

……。


首を横に振る。

昨年の秋、暮れに予定されている母の三回忌を前に一人で墓参りをした。

法事のあとでも墓参りはできるのだろうけど、みんなと一緒だといつもゆっくりできないから、偶々重なった地元近くへの出張と合わせて行動した。ちょうど日曜日だった。

母と兄ちゃんは、同じ墓の中にいる。

離婚した両親、親権は母で、父は10年以上前に既に亡くなり、同じ寺の境内の、少し離れた場所に墓がある。

母と兄ちゃんのお墓の前に腰をおろし、ゆっくり話をした。一方的に話をした。自分のこと。二人はもう再会できたのか。父とも会ったりしてるのか。

兄ちゃんの日記のこと。落書き帳のこと。見ちゃったよ。大原美術館のこと。また一緒に行けるといいなあ。くすっ。

ついでに帰り際、父の墓前にも立つ。
や、来たよ。生前には会っても頑ななほどに会話をしなかった。

その次の週末、いつものコーヒー屋さんで豆の焙煎の予約をした。受け取り日、いつもそうしているように少し早めに自転車で家を出て、倉敷駅の北口にある駐輪場に止め、南側の旧市街方面に向かう。受け取り時間までいつものように街をぶらぶらする。

駅から南に延びる大通りを歩いていると、左手に見慣れない景色があった。何かの庭園かと思いながらそちらに近づくと、大原美術館の裏手だった。あ、そうか、確かにこうなっていたな。いつもは観光エリアの方ばかり見ているからわからなかった。腕時計を見る。10時半。コーヒーの受け取り予約時間までは小一時間。受け取るだけだから少しくらい遅くなってもいいのだけど、昼過ぎくらいには家に帰りたい。となると、館内にいられるのはやはり1時間もない。などと考えながらも足はその庭園を囲む塀の横の道を進む。柳並木のある倉敷川沿いの道に突き当たり、左に折れると見慣れた重厚な造りの美術館の入り口に着く。

この場に来てもまだ逡巡する。いや、せっかくならもう少し時間に余裕がある時の方がいいんじゃないか? たくさんの絵画があり、どれも貴重で見応えがあり別館もあるのだから。

一通り観賞するとなると、1時間ではとても足りない。

じゃあ今日は本館だけにする、と割り切って門をくぐり、チケット売場で入場券を買った。

ロダンの彫刻の横を通り、エントランスの階段を上る。中に入ると照度が一気に落ちる。美術館の絵画の収集に大きな功績のあった児島虎次郎自身の作品が一番に飾られている。この絵も好きだ。

そこを進むと奥にはモネ、ゴーギャン、セガンティーニ、ルノワール、マネ、マティス。こんな地方都市の美術館が所有しているというのが奇跡のような作品の数々。

何度かこれらの前を通っているが、来るたびに、その貴重さへの想いが深くなる。貴重さというだけではなく、作品そのものが持つ鑑賞者へ訴えかける力。間違いなく、時間という批評をこれからも耐えうる芸術。

その絵の展示のために部屋のサイズが設計されたというフレデリックの大作。

この施設の中核、エル・グレコの受胎告知。

ピカソ、ウォーホル、ムンク、ロートレック、モディリアーニ。

さすがにそらではちょっと…。

時間を気にしながらも、いくつかに別れた展示室を巡り、そろそろ出るか、と思ったところで最初の部屋で観た作品が俄に思い出された。

頭で考えるより先に足が回れ右をする。もう一度見たい。

早足で順路を戻り、最後に階段を下り、第一展示室に入る。その絵はどこだったか、他の入館者の迷惑にならないように一枚一枚見て回る。

そして展示されている数多の絵画の中でも一際小さなサイズの風景画、

『ラ・フェルテ=ミロンの風景』の前に立つ。

今日、最初に目にした時にもなんとなく気になっていたフランスの田園詩。運良くしばらくの間、その絵を独占できた。ヨーロッパらしい、知らないけれど、柔らかな光。

そうか、兄ちゃんはこの絵が気に入ったんかな。

満足し、もう一度早足で順路どおり館内を先へ進む。本館の建物を一旦出て、敷地出口手前のミュージアムショップでその絵のポストカードを購入した。

ついでに、受胎告知とモネの睡蓮も。
ついでに、ではないよな。

『またゆっくり来ようよ。
今日まだ見てないところもたくさんあるから。今日ここに誘ってくれたのは兄ちゃんだよね』

なんとなく、そんな気がして。

晴れやかな気持ちで商店街をコーヒー屋さんの方向に歩く。


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