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三度目の春


事情があって昨日今日の週末はほとんど家にいた。外に出るのは買い物に行くくらいで、あとはノンの散歩か。

散歩で近所の堤防の上に立つと、対岸の丘の上にある大きな桜の木が薄いピンク色に染まっているのが、数日前からこちらからでもわかるようになった。間にあるのは下流域の一級河川と広い河川敷だ。

あそこまで道がまっすぐ続いていれば歩いて15分ほどだと思うが、事実は数百メートル下流にある長い橋を渡らないと向こう岸まで行くことはできない。地図アプリでは徒歩で35分ほどと表示される。

二年前に初めてあの桜の木の下まで行った時には自転車を使った。

と、その時にここに書いた文章にある。

そうか、その時はまだ自転車に乗ることができていたんだなと思い出す。

昨年は全行程を歩いた、と自身のSNSに書いている。自転車は普段は気づかないけれど、意外と判断力を使う。まずはリュックとカメラと水筒。歩きならこれで十分だけれど、自転車ではヘルメットを被る、ジーンズの裾をバンドで留める、チェーンロック、ギアの選択、交通法規、歩行者への配慮、自動車に対する警戒、スピードが歩きよりは格段に速いのはもちろんメリットだけれど、そういった判断の多さに昨年の春先に突然気づき、それからほとんど使わなくなった。判断することに疲れを感じるようになったからだ。

二年前のその日はまだ休職こそしていなかったものの、前の月から欠勤日数が異常に増えてきていて、もう自分でもどうにもならない、できない、とわかっていた。予約した心療内科の初診はそこからさらに二週間以上後だった。そんな状態でも自転車には乗れていたのが意外だ。

初めてそこで見た桜は、対岸からでも見えるくらいだから大きな木で、風格さえあった。葡萄栽培のハウスの間の細い農道に堂々と立っていた。幹がごつごつとして、軽く抱きつくとその感触が心地よかった。そこから対岸、つまり逆にぼくの住んでいる住宅地が遠く見渡せた。

昨年も行ったが、その時のことはあまり覚えていない。きれいに満開だったのは間違いないけれど、それ以上の記憶がほとんどない。全行程を歩いた、というのもSNSを頼りに記憶を手繰り寄せて、ああ、そうだったかという程度だ。休職して半年以上が経過していた。復職に向けたプログラムが心療内科クリニックで始まっていたはずだ。そこそこ規模の大きな都心のクリニックだ。

復職プログラムを受けながら、復職に対するイメージが湧かなかったし、復職したい気があるのかさえ怪しかった。それでもそのプログラムを受講していたのはスタッフがよかったから、という理由だけだった、と復職した今も思う。

今年もあの桜が数日前から薄ピンクに色づき始めているのがわかった。ソメイヨシノか別の種類かさえもよくわかっていない。今年の桜の開花予想はもっと早かったはずだが、その頃になっていきなり強い寒気がやってきて、結局は例年とそう変わらない頃合いになった。

薄ピンクが見えだして、日にちを数えると、ちょうどこの週末くらいに満開になるんじゃないかと期待しながら、ノンを連れて堤防の上で毎日観察をしていた。

そして今日、本当なら別の用件があったのだけど、ちょっとした事情でそちらのほうをキャンセルした。

そして堤防の上から満開なのを確認した。

家にいてやることはたくさんあったが、なんとか午後の二時間、時間が取れそうだった。あそこまで歩いて行くか自転車の空気を入れて乗っていくかは直前まで少し迷ったけれど、歩くことにした。片道30分かけても十分家まで戻って来れるだろうと踏んだ。

お昼を済ませて洗い物をし、少し腹を落ち着けてからリュックを背負ってカメラを肩に斜め掛けにして、スニーカーを履いた。朝は気温が低かったが、正午ごろになって外気温が上がってきているので、上着は止めておいた。

とにかくなるべくよそ見をせずに、やや急ぎ足で橋を渡った。堤防道路の端を歩を進めていると、何台かの乗用車が大きくぼくから距離を空けて抜いていった。途中で古い水門があるところを丘の方へ入ると、何軒か古い民家があり、道はぐんと細くなる。坂道の勾配がきつくなる。そうだ、二年前はここで自転車を降りて小さな墓地の脇に置かせてもらったんだった。

さらにカーブを越えると、開けた畑地の上にあの桜が見えてきた。三度目の訪問だ。近づいてから、急にそうしたくなったから、帽子を脱いでお辞儀をした。

大きな木が、花をたくさんつけた枝を広げていて、その下で幹に触れてみた。初めて触れたときと同じようにごつごつとしていて優しい。腕を回して遥か下を流れる川の方に顔を向け、しばらくそうしていた。

畑には誰もいなかった。

ちょうどいい具合にコンクリートブロックが置かれていて、そこにリュックを下ろした。喉が乾いたから水筒を取り出して白湯を二口ほど喉に流し込んだ。

いつものレンズをつけたカメラで写真を撮った。坂の下から、坂の上から、木の真下から。まだほとんど花は散っていないようだった。

そうしてリュックを置いたブロックに腰をおろさせてもらった。人の畑である。勝手をして申し訳ない。

ゆっくり桜を眺め、地面に目を遣ると、キュウリグサの小さな花があった。

黄色い蝶がぼくの後ろから地面すれすれを飛んできた。ぼくは立ち上がり、どこかの花か草に止まるタイミングで写真を撮りたかったが、その蝶はひらひらと飛んでばかりで、気づくと桜の木の下を通り過ぎて、まるで蝶が、そろそろおいとまですよ、と言っているようだった。腕時計に目を落とすと、ここに着いてからすでに30分以上が経過していた。確かに。

そのまま蝶をゆっくりと追い続けると、畑の中の方へ行ってしまった。振り返ると桜の木とは距離がもう空いていた。

ぼくは来た時と同じようにお辞儀をした。

そしてやっぱり急に思い立って、帽子を脱ぎ、少し大袈裟に両手を挙げてさようならをした。

三度目に見る桜。来年も来られるかどうかはわからない。急に興味を失くすかもしれないし、満開のタイミングに合わせられないかもしれない。怪我をしているかもしれない。引っ越しをしている可能性だって、無いとは言えない。天気だってあるだろう。行けるのに敢えて行かないという選択をするかもしれないし、そもそもぼくがこの世にその日に存在しているかどうかさえわからないのだ。そう思うと、気持ちが胸から込み上げてくる。いっそ泣ければいいのにともう一人のぼくがささやく。

だめなんだ。感情をコントロールすることを覚えてしまって。

下りながら何度か坂の下から桜を振り返る。初めて来た時のように。

カーブを曲がると、桜の木は見えなくなった。

また明日からは堤防の上からあの木を遠く眺めて、そして花が全て散ってしまうのを、離れた場所から観察するのだ。



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