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青木さんのこと

青木達之。東京スカパラダイスオーケストラ初代ドラマー。
スカパラの結成・デビューから1999年5月に急逝するまで在籍。

20代の頃、私は青木さんが大好きだった。私の20代はほぼほぼ青木さん一色だったと言い切ってしまおう。

もともと打楽器に興味があった。中高の部活動でブラスバンドに居た時もパーカッション、とりわけポップスをやるときだけ出てくるドラムはすごくかっこいいなと思っていた。10~20代、一番音楽を聴いていた時期がバンドブームと重なり、どのバンドを見てもまずボーカルとその奥にいるドラマーに目がいった。パッションを前面に出してエネルギッシュに叩く人が多い中、青木さんはその対極を行くような感情を抑えた正確な演奏、出すぎず引っ込みすぎず。クール。スマート。そのバランスの良さがかえって存在感を際立たせているように思えた。

スカパラ以外で活動している時の青木さんもかなり好きだった。
幸宏さんや小沢健二、教授、高野寛など、自分の好きなスカパラ以外の作品に参加している青木さんの名前を見つけては小躍りし、サポートで誰かのコンサートに出ると聞けばチケットを取った。
青木さんがDJとして出るクラブイベントにも何度か行った。青木さんがクラブでまわしていた音源を調べ、タワレコやHMV、中古レコード店などに行って探し当てるのがすごく楽しかった。自分が本来聴く予定のなかったであろう音楽に触れることができたのは、本当に貴重な経験だったと思う。

99年5月。青木さんは32歳で唐突に亡くなった。
訃報の10日後くらいからスタートしたスカパラのツアー、東京公演。いつもの赤のドラムセットがステージに無い。代演でタツヤさんが出てきた時に、あー本当にいないんだと、その時初めてショックを受けた。
頭の中で「がーーーーーん!」と音がした。

ツアーを直前に控えた状況での不慮の事態。
スカパラがボーカルを入れてレコード会社を移籍するその前後、青木さんのお肌はちょっと荒れていた。顔つきもお疲れかも、目がいっちゃってるなとも思うこともあった。でもそれが何かを感じさせるほどではない、環境も変わったし、忙しいんだろうなーっていう程度。

本当のところはなんだかよくわからない。特に知りたくもなかった。知ったところで何もできないし、知ってしまうことで、スカパラや好きだったほかの音楽を聴けなくなったら嫌だという気持ちが強かった。
好きなものを好きなままで大事にしたかった。
ただ、なんだかわからない、はっきりしないということは、心を不安定にさせる。心の置き所がない。本当のところを知りたいと思っていないのに、なんで?なんでだよと思ってしまう。その葛藤がけっこう何年も続いた。

青木さんが抜けたことで、やはりバンドの雰囲気も少し変わった。
”俺たちは後ろは振り向かず、前だけ見て突っ走るんだ”
文字が全部斜めみたいな感じで、青木さんがいたときの雰囲気がその後みるみるなくなっていった。音楽的にも自分の好みからずれていったため、スカパラから気持ちが少し離れた。ライブは観に行っていたが、あまり積極的な気持ちで観れなかった。周りが盛り上がるほど、自分だけ沈んでいく感じがした。

再びスカパラを明るい気持ちで聴けるようになったのは「Pride Of Lions」。最後のフェイドアウトしていくピアノを、ボリュームどんどん上げて何回も聴いた。その前にもめくれたオレンジとか好きな曲はぽつぽつあったけど、ライブが楽しみだと再び思うようになったのはPride Of Lionsの頃だった。青木さんがいなくなった当初もバンドが続いてくれることはよかったと思ってはいたが、このあたりで本当にそれを実感した。これ以降は、バンド継続ありがとう、スカパラありがとうとライブを観るたびに思っている。

昨年は好きなミュージシャンの訃報が相次いでしまい、例年になく青木さんのことを振り返る機会がたびたびあった。
青木さんの時、どうだったっけ、あの時についた免疫とかがあるのではないかと思い返した。でもそんなものなかった。去っていく状況も、その人への私の思い入れの度合いもそれぞれ違う。そんなことが起こるたびに大なり小なりの新しい「がーーーーーん!」が頭の中で鳴る。
この衝撃をこれから何度も体験するのだろうなと思うと、まあまあやるせない。でも、つらいから音楽聴くのやめるとは絶対にならないので、もうその都度受けとめるしかない。

8月15日は青木さんの誕生日。ご存命であれば今年58。アラ還の渋いドラマーになっていただろうかと想像しながら、これからもスカパラや幸宏さんや小沢くんを聴いていく。