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【応募作】切り裂きジャックの愛弟子③

「シア・ティエはこの国の人間には発音しづらい。表向きの名前を別に考えよう」
 シアの白い髪を染め粉で黒くしながら、ジャックは急にそうのたまった。
「サマー・バタフライだと直訳すぎるし、人名っぽくないな。こう、適当に語呂合わせをするか。サム……サミュエル・バートンなんてどうだろう?」
「……いいですけど」
「どうでもいいですけど、の間違いじゃないか? そう言う顔をしている」
「実際、どうでもいいですし、それでいいです」
 名前がいくつあったところで、使う機会が限られている。そもそも、シアには未だに彼の『弟子』になったという実感はない。何も教えられてはいないからだ。
 いや、教えられたことは一応あった。毒物が少ない食事をとること。そして、熱がある時はソファではなくベッドで寝てもいいこと。
 シアはジャックが呼ぶ「シア」という名前の響きを思い出して、そっと目をそらす。別に名前を呼ばれたいわけではない。呼ばれたいわけでは。
「これから、僕のことはサミュエルと呼ぶのですか……その、先生」
「うーん、これまでシアと呼んできたからなぁ。あくまで、対外的に名乗る時の話さ。お前はチャイニーズといっても、欧米混じりのようだし、顔立ちもそこまでアジア人ぽくない。肌も白いし、純粋な英国人を名乗ってもさほど疑われることもないだろう。外ではサミュエルを名乗りなさい。愛称はサムかサミー」
「……わかりました」
 ジャックはこれからも自分のことを「シア」と呼び続けるつもりでいるようだ。ほっとしたようなそうでもないような、複雑な気持ちだった。
 外向けの名前を作ってもピンと来ないのは、買われてから今日に至るまでの約一か月、一切外に出る機会がなかったからだ。
 『蠱毒』は毒を食べて、毒に身体を慣らし続ける。だから毒を抜いた状態では、正気を保てないほどの苦しみを味わう。
 ジャックが食事にほんの微量の毒物を混ぜて、正気を失わずに済むよう『適度に毒抜き』したのが今のシアだ。
 ようやく熱も下がり、寝込むことも少なくなった。
 ゆえに、いつでも外を出歩けるようにと、目立つ白髪を染められている。
「やっぱり、瞳の色が黒に近いから、金髪よりも黒髪が馴染むね」
「チャイニーズに見えません?」
「気にするほどにはそう見えないよ。黒系の髪も、アジア混じりも、ロンドンにはたくさんいる。お前は顔立ちが西洋人寄りだね。恐らく両親のどちらかがこちらの出身だったんだろう」
 物心つく前に売り払われたシアは、両親のことは出身どころか名前すらしらない。
 それでもいいし、これからも知らなくてもいい。だけど青みを帯びているという自分の瞳がジャックに気に入られたのかと思うと、多少はありがたく思ってもいい気がした。
「僕は長く生きられないと思いますが」
「目の前にお前と同じ毒物漬けの人間がいるのだから、俺が生きている限りお前にも生きる可能性があるということだよ」
 毒に耐性があるのと、体そのものが毒物になるのは、似ているようで雲泥の差がある気がする。だけどシアはもう、そのことを率直に尋ねることはしない。ジャックはシアの疑問によく答えてくれるが、説明してくれないことは徹底的にはぐらかすからだ。シアにも、ジャックがどんな話題をはぐらかすのか、だんだんわかってきた。
 そのかわりに、答えてくれそうな質問を投げる。
「先生、ところで何歳なんですか?」
「何歳だと思う? 恐らく、シアからするともうおじさんではあるよ」
 わからない。ジャックを見ても、未だに顔の印象がまとまらない。若くも見えるし老けても見える。二十代から四十代の間なら、何歳と言われても信じる。
 多くの『蠱毒』は、成人するまで生きられない。シアは今、十五歳だから数年内に死ぬだろう。
 毒に慣れた人間であっても、毒にじわじわと冒されて死に至る運命には変わりがないのだ。
 でも、目の前にいるジャックを見ていると、この人なら無理やりにでも自分を生き延びさせそうな気もした。自分が生きる、というよりはジャックに生き延びさせられる、という方がしっくりくる。
「僕の毒抜きが終わったら、暗殺の方法を教えるつもりなんですか?」
「うーん、そうだね。せっかく取った弟子だから、教えないともったいないな」
「でも毒抜きが終わったら……、僕は暗殺者として役立たずですよ」
「いや、さすがの俺も、せっかくとった弟子を死地に送り込むことはしないよ。ちゃんと暗殺術を叩き込むから、そのつもりでいるように」
「もう一か月も、僕はここでゆっくり過ごしているだけですが」
「毒抜きに思っていたよりも時間がかかってね」
「はぁ、そうですか」
 シアは納得したような、しないような顔をした。年齢も結局答えてくれなかった。
「シア、俺はお前のことを、これでかなり気に入っているんだ。そうじゃなければ、こんなに毎日丁寧に食事や寝床を与えたりしないよ。大体、俺はその気になればいつだって一瞬でお前の喉笛を切ることができるんだ。面倒ならとっくにやっている」
 『殺さないこと』を好意の傍証にするのは、いかがなものだろうか。呆れたシアを見て、彼はまた笑った。ジャックは暗殺者なのに、よく笑う人だ。
「いや、先生である俺に言い返すだけの心の余裕がシアに出てきたのは、喜ばしいことだよ。最初なんて、本当に死にかけの虫みたいだった。ガリガリで、目に光がなくて、人の心なんて何一つ持っていなさそうだったからね」
「先生は、変わることなく最初からずっとひとでなしですね……」
「暗殺者に人間らしい情緒を期待するのはやめなさい」
 たしなめるポイントはそこでいいのだろうか。
 人間らしさというものがどういうものなのかについては、シアだって大したわかっていないのだから、問い詰めようがなかった。
「目立つ白髪を染めたということは、僕はもう外にでていいのでしょうか、先生」
「個人的にはもう少し閉じ込めておきたいところだけど、それじゃあ身体が弱るし、何よりもシアにはロンドンに慣れてもらわないといけないからな。買い出しくらいはやってもらおうかな」
「わかりました。安心してください。育ちはアレですけど、店で買い物をする方法くらいは知っています。生活上必要な知識がまるでないと、それはそれで不便ですから」
「それはそうだね。致死量ではないけれど、お前は汗も毒を含んでいる。手袋をあげよう。それと、念のため、護身用のナイフを用意した。持って行きなさい」
 ジャックが放って寄越した、薄手の革手袋と小さなペティナイフを受け取る。ナイフはポケットにも入れられそうな大きさで、厚い革製のカバーから取り出してみると蝶の刻印がされていた。
「いつのまにこんなもの」
「必要だと思って」
「買いだしにですか?」
「暗殺者たるもの、自分の命は常に狙われていると思った方がいい。何せ恨みを買いやすい仕事だからね」
 シアはまだ暗殺の仕事をしていない。ナイフの使い方ひとつ教えられていない。今のところジャックから学ばされたのは、味のしない食べ物でも噛み砕いて飲みこむ根性だけだ。
「いいね、自分の与えたものを持っていると、弟子なんだなという気分が高まる」
「先生の気分の問題でしたか」
「そうだよ、お前に与えるものは全て、俺の気分でできている」
 やっぱり、この人には人らしい感情はない。およそ人らしい生活をしたことがないシアですらそう思うのだから、相当だ。
 呆れ半分、納得半分のため息が漏れた。
「……買い出しに行ってきます」
「マーケットはこのアパルトマンを出て、右手にまっすぐ行った角を曲がったところにある。今、地図を書こう」
 メモ帳に簡単に書いた道順を、破ってシアに渡してくれた。これでは子供のお使いだ。
「お金は多めに財布にいれておいたから、好きな菓子や果物を買ってきなさい」
 ――ついでに言うと、子供に言い聞かせるような声音でそういうことを言い添えるのもやめてほしい。

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