澤村桃
村松開人さんが好きだ。 その感情は何なのだろうか。何なのだろうかというのも何なのだろう。 そもそも最初に見たときから、「かっこいいな」とか「OOが魅力的だな」とか特別な感情を持っていたわけではない。2年目の選手だし、良いなと思ったのははっきりとは覚えていないけどたぶん、森道市場とかが終わったくらいの季節だったと思う。特にこれといった瞬間にはまった訳ではなく、何となく良いなと思う要素が積み上げられていったのだと思う。ショートという守備負担の大きいポジションながらも、勝負
向井秀徳の口上パロって笑ってるのも、知らないかっこいい曲年下の子から教えてもらうのも、今池のパイセンたちと野球観に行くのも、大学のゼミの懐かしい話ししながら家で駄弁ってるのも、おしゃれな手料理食べながら雰囲気のいい話するのも、度を超えた狂った大人の武勇伝きくのも、新しい企てをする仲間と熱のこもった話するのも、親とその友だちの不器用で実直な話を聞かせてもらうのも、6才からの付き合いの友だちの変わらない気持ち良い話するのも、まだ知らない楽しい時間もきっと全部好きだろうから。
あまり見られていないけど、誰かには見てもらえる可能性があるというのが1番良さそう。 ワンカップが毎日置かれてる駅のトイレとかに、付箋で呟きとか、日記とかを貼ってみたら。 何か、ワンカップ置いてる人は本当にむりなとき助けてくれそうな気がするもんね。 同じように戦っていてくれという願望に過ぎない、あさやかな逃避の可能性をのこしてくれているからね。 そのガラスさえもが幻だったらいいのにな。
安易であるものを自分ひとりで泣きながらでもテッテ的に許さないこと。 真水の中を泳いでいかに酔えるか。 それがどんな真水でも。
脳が疲れるとあまいあつい紅茶が飲みたくなる。 なんか「あ」とつく修飾語がたくさん連想されるから、元気付けられる気がするから。 そういう意味をちゃんと持たない理由を、行動に紐付けて行うことで、ひらひらとした部分が剥がれているから何となくかっこいいと自分は思うのだ。 全体ひらひらとしていると思われている創作物や自然物についても、澤村が好きなのはひらひらの骨格や、システムや、法則であるのかもしれない。ちなみにひらひらは比喩ではなくて、ひらひらとしか言いようのないもののことであ
0と百、セントレイ、0,1のそれぞれどれかで、気分によってそれを選択するだけみたいな性格で生活する成果のない正解は、演技性の何らかに包まれることに少しだけ安心する。注射が苦手で、それならば薄い刃物で切りつけて血を出したり、液体を入れたりしてくれたらばいいのにとよく思う。細い針で刺された、小さな穴が、永遠に点Pとして存在するから、情報で精査できない、娯楽として生み出された感情に気を取られたいだけなのかもしれない。変なふうに脱ぎ捨てられた半端な外出着は、浴槽からは、軽くもなく、重
酒飲んで文字を書き綴るの、感情の高まり方やばくてヴィドフランスで感動してちょっと泣いたりするから、昔のアブサン的な事象だと思う。あぶさん読みたくなってきたな。
ほんとうのところ、とても存在に耐えうるような自信はない。ほんとうのところ、それでも自分を存在させることができる強力なパワーを発揮できるように鍛えてきた。 「だから何?」 フキ硝子の向こうで、かたくて冷たいアッサムティーをストローで飲み干しながらそう思った。 誰かに語りかけたつもりだった。だけれど、向かいの椅子には誰もいなかった。それでも、やっぱり、時間は進んでいくのだし、少しくらい幻想を信じても、今まで生きてきて体感した運の良さでバチは当たらないのかもしれないなとか思っ
呼吸を取り戻した(物理)ぼくの二度目の夏休み(比喩) とツイートした。 夏風邪をひいて、長らく咳が止まらなくて今までしていた呼吸がわからなくなっていたから、薬を変えてすこしだけ普通を取り戻した呼吸に対して、疾患しているときの前を制限のない自由な状態と捉えると七尾旅人の八月の一節が妙に当てはまって嬉しい気がしたので、二度目の夏休みは比喩として今の気持ちを現していることにした。 ただ、よく考えたら、何となくマスクを外していても違和感のない雰囲気になってから、2度目の夏かもし
何か文化祭の準備かなんかやってたはずなんだけど、全くその部分思い出せないまま暑い中食べたピザと蛇花火の煙だけ覚えてる。
何回生まれ変わってアイドルになっても好きな球団の選手にしか、教えを請わないキモい頑固さだけ継承するからな!!!!!!!
偽物の人間にあまり好感が持てない、というか嫌いまである。 偽物の人間は、実在する人間ではなく人々に想像されてうまれた実在しない概念上の人間のこと。 その人間は、何かの製品を作るために生み出されたり、何か意見を言うために生み出されたりする。そしてその生み出された人間は、その状況に反論する言葉を持たない。その上、腫れ物のように扱われたり、不自然に丁寧に扱われたりする。 ・ニセ人間は、意見を通したいがためのツールで人間的な寛容さだったり面白い部分を欠かすことになる。 ・価値を
布団の中から蜂起せよ/高島鈴 を読んでいる。まだ40ページくらい読んだところ。 読んでいくと面白いし、確かになとなることも多いし、でもその熱量のせいなのかドサっと疲れたりしちゃったりするから少しずつ読んでいる。読んでは閉じ、閉じては読みしている。 一度閉じてしまうのに読みたくなる不思議な感じは謎の心当たりがある。 例えば私という一人称をスピード感がないという違和感として語る部分があるのだが、そこを読んで小4の時に澤村自身の一人称に感じた違和感のことを思い出した。「わたし
もすこし、適当に、思いついたことを書きたい。ちゃんと書きたいなと思うこともあるから。 今日の午前の空は綺麗な青だったけど、好きな感じの青じゃなかったから、その色が好きそうな人を仮想敵にしてそいつだけ嬉しい思いしやがって悔しいみたいな気持ちになったので、エネルギー無駄遣いしちゃって損したなと思い込むことにした。 客観的に堂々巡りの思考に時間を費やしてしまったことにして、どうにか好きな色のグループなのになぜか偶々今日のその青色が気に食わなかったことのどうでも良さそうな真実に行
些細なことは、すぐ忘れてしまう。それは何か一つの要素が大きいだとか、そういう分かりやすさがなくて、印象を記憶と結びつけづらいからであって、その事が大事じゃない訳ではない。 その時触れていた空気の温度とか、その時に感じてた身体の重さとか、その時に散らばってるそこかしこのことごとが、いきなり時を止めて整列させられたかのように、そのデザインされた何かのようにみえることがあって、結構いっしゅん泣いちゃったりするくらいがくんとくることなんだけど、それぞれは何でもなさ過ぎて些細としか言
野球は結果である。 結果というのは、数値の集積でもあるがもっと単純に2つの数の大小で決まる。 たくさんの工程を踏んで、ルールとして設けられた裏と表のプレーを打者ごとに行っていく。ボールを投げて、それをバットで打ち返すことで起こった結果を評価し安打またはアウトとしてスポーツは進んでいく。 澤村は野球を見るのが好きだ。なのでよく球場に野球を見にいくが、10回に1度くらいは体格の良い大人達が同じデザインの衣類に割り振られた番号で、球を棒で打ち返してその結果を積み重ねていくこと、そ