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私がもし先に死んだら


わたし『ねぇ、もし私が先に死んだら、また誰かと結婚するの』

おっと『しないよ』

わたし『じゃあ、もし〇〇が先に死んで、私が誰かと結婚しちゃったら?』

おっと『呪う 笑』

そう言われて、私は笑った。

そうか、夫は呪うのか、、、(笑)

*~*~*~*~*~*

「生きる」ことと「死ぬ」ことは私達の人生から切り離すことはできない。
だから誰かを好きになったと同時に、どのような形であれ「別れ」は訪れる。それが離婚であろうが「死」であろうが、どんなに一緒にいたいと願っても、「別れ」の瞬間は必ずやってくる。

わたしは幼い頃に「死」に対する怖さを持っていた。「お母さんが死んじゃったらどうしよう」「いなくなってしまったらどうしよう」そんなことを考えると、頭の中が真っ暗になって、訳のわからない恐ろしい闇に吸い込まれそうで、何も考えられなくなって、布団をかぶって寝てしまったのを今でも覚えている。それはよくよく考えてみると、「大切な人を失う恐怖」もともなったものだったのかもしれない。

だから夫が先に死なれた時のことを考えると、悲しみや寂しさ、喪失感、ひとりぼっちになる恐怖が出てくる。わたしはその感覚に耐えられない、、そん風に思っていた。

それと同時に、私が先に死んで夫が誰かと結婚するかもしれないと考えると、それはそれで腹ただしさや怒りが湧いてきていた。自分が大事にされていないと感じて、そんなことは許されない、何か騙されたような、裏切られたような怒りが湧いてきていた(笑)

ちなみに全部それは、仮定の話で今は何も起こっていない。
今は呪う人も呪われる人もいないし、安全だ 笑

昔は、『死』そのものに対する恐れも合わさって、大きなわけのわからないものになり、こうしたことを考えるとどう処理していいかわからなくなっていた。

けれど、私は以前の私とは違う気持ちでこのことを感じている。

それはある経験で死に対する恐れがほとんどなくなってしまったからだ。
(詳しくは→あなたの愛を阻むもの②中間生で魂の叫びに出会う)
それよりもむしろ残された者の喪失の悲しみを思うと、とても胸が痛んだ。

もちろん、私が先に死んでも、残された夫が何とかそれを乗り越えて、友人たちと楽しく余生を過ごしてくれたら、何も言うことはない。そんなことだったらいい。

生活のそこらじゅうに私を感じて、ふたりの何十年の生活の素晴らしさを振りかえり、時に子供のようにバカ笑いしたり、、私のおバカ加減を思い出し笑いしたり、深く愛し愛されていた感覚が懐かしさと愛おしさとともによみがえって、ほろっとなったりするのなら。

目の前に私がいなくても心が繋がっていて、見守られている感じがして、
空の美しさを感じて、海の潮風を楽しみ、ご飯を美味しく食べ、心地よい眠りにつけるのなら。

友人との語らいを楽しみ、ふっとわたしを忘れるくらい、楽しい時間を過ごせるのなら。

もちろん、心に喪失という美しい痛みを持ちながら、喜びも悲しみも感じて生きるのもいい。

けれどもし一人の家に帰り、猫との生活では埋めることができない悲しみや寂しさがあり、長く苦しんでいるのだとしたら、わたしはそんな彼の姿を望んでいない。

わたしが望んでいるのは、、、、

彼が彼らしく、あのくしゃくしゃとした笑顔と優しさを自然にだして生きることだ。私がお風呂に入ろうとお湯を入れていると、何も言わずに、お風呂の暖房のスウィッチを入れてくれるあの優しさを自然にだして生きることだ。そして私の心を温めてくれたその優しさが途切れてしまったらもったいないと思うのだ。

(あー、これさえもわたしのエゴなんだけれども。ほんとうは彼はどう生きてもいい、嘆き悲しんでもいいのだと知りながら、、、)


*******

だからもし、、、

私が先に死んだ時、寂しさに耐えられなくなったら、、、、

  

誰かを好きになっていいよ。

愛する人には幸せでいてほしい、
愛する人には、笑顔でいてほしい、

悲しみや寂しさに耐えられなくて、その感情に圧倒されるような日々を過ごすよりも、くしゃくしゃの笑顔で笑っていてほしい。

だからわたしはきっと、こう言う。

私はいつもあなたの心の中にいて、
そしてもしあなたが恋をしたら、私もあなたと一緒に恋をしている。

だから安心して幸せになってほしいと。

愛はあなたの全てを受け入れているから、
どんな道もあなたに開かれている。

あなたがあなたらしく生きること。

あなたの灯火の最後まで、
あなたを輝かして生きること以外に何もすることはないよ。

そう(心の中で)彼に言うことで、夫を解放し、そして不思議と私自身も解放されたのだ。


このことは私の心をとても自由にしてくれた。

なぜなら夫は私だったからだ。

私自身が一番この『怖さ』を持っていたからだ。


『一人ぼっちで暗い家の中で、心沈ませて死んだように生きる』
この怖さを私が一番持っていたのだ。


そうこれは、つまり、もしかしたら、私の、

夫が先に死んでも、悲しんでメソメソしてるだけじゃなくて、ちゃんと人生を楽しんで生きていくよ宣言なのかもしれない(笑)


だから生きている『今』をめいいっぱい愛しあおう。
死に別れる恐怖など恐れずに
怖さにおののいて、愛を出し惜しみせずに、愛し、愛されよう。

ということで、バースデーの花束をもらっていないので、早速催促しようっと(笑)


でもこれは本当だ。

私たちは誰かを本気で愛し抜くとき、
相手の幸せしか願えなくなる。

なぜなら
私はあなたで、あなたは私だからだ。

そしてあなた(わたし)が恋に落ちるかもしれない、
もう一人の人も私(あなた)なのだ。

私は、私(夫)を通してもう一人の私(誰か)に恋に落ち、ひとつになる。全ては私なのだ。


P.S

去年の夏には書き終わっていたこの記事をアップするのに、なぜかとても躊躇した。(その内容は置いておいて)もうアップしようと思って再び読んでみたら、

夫(私)がもし先に死んだらどうするか、、、
それはもうその時の私(夫)に任せたらいいと思う(笑)

そして、『ひとりぼっちで暗い家の中で、心沈ませて死んだように生きる』のも悪くない、、、そんな気がしている。
なぜなら、なんとなく、そこから自然と生命の赴くままに、長雨の終わりに雲間から射す一筋の光のように、また悲しみも寂しさも、愛情も、会いたいも、抱きしめたまま、ふっと笑える日が来ることを知っているから。


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