わたしは力の中にただあった

 イエスキリストは大工ヨセフと乙女マリアの接合の末に生まれたわけではなかった。マリアは聖霊によって身ごもった。それはイエスがその誕生から神の子であったことをあらわしているわけだが、『南無阿弥陀仏』(柳宗悦著)を読んでいて、また別のとらえかたもできるのではないかと思った。(柳宗悦が直接処女懐胎について言及しているわけではない)

 最近逗子という海の街に引っ越した。秋口の逗子海岸に椅子を出して箱根の山稜や水平線をながめていると、 自分はどこから来たのだろう、そんな疑問というか疑念というかが頭をもたげてくる。

 私は、父と母の接合の末に、生まれた、といっても、直接自分の生まれるさまを目撃できるわけではないから、それはただ確からしいとしか言えない。それはあくまでもとても表層のことで、ほんとうのこと、ではないような気がしていた。父親の遺伝子が母親の遺伝子と交わって、私の名前を持つにいたる受精卵となる前、いったい私はどこにいたのだろう、それが、わからない。

 私は半分ずつだった。父と母に別れて、私は、それぞれにあった。それには疑問を差し挟まないことにする。でも、その半分ずつのものを適当に組み合わせたとしても、私が完成するわけではない。私となる予定のものを、父と母から半分ずつ集めてきて、なんかの水溶液に満たされたビーカーに投入して、一時間とか二時間待てば私ができあがる、ということは決してない。人間の子供が生まれるには、胎内でも胎外でも特定の手続きがある。その手続きというのはどこまでも細分化されて追跡可能ではあるけれども、じゃあなんでそういう手続きになっているんですか、と聞かれるとよくわからない。地球という青い星の重力下環境では~くらいの理由付けしかできない。重力があり光があり宇宙があり惑星があり、地球があり、いのちがあり、発展・後退を絶え間なく繰り返す過程で人間がかたどられて子を成す。そういうありさまを作った力。陳腐だが、そういうふうにしか結局は答えられないのではないだろうか。

 子が父と母の接合によって産み落とされる。それはとても、表層のことでしかないような気がする。突き詰めていけば、力、それに因るのではないかと思う。だから、マリアの処女懐胎についても、それはもちろんイエスの神性を表現するとても端的な出来事なのだろうが、同時に、人間そのものが、父と母のみによって生まれるわけではない、ということを意味してはいないか。父の不在に(正確には父の不在ではないが)よって、わたしたち衆生も、力=神(好きなように呼べばいいと思います)によってこの世界にある、無際限なその救いを強烈に暗示している気がする。父がいないことによって、人間が、父と母によってのみ産み落とされるわけではないこと、それをあらわしている。だから、わたしは生まれる前はどこにいたのか、ということについては、わたしは力の中にただあったのだと思う。





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