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点字がついた一冊の本ができるまで

この記事は、「ひふみ」・映画『異動辞令は音楽隊!』・noteで開催する 「 #一歩踏みだした先に 」投稿コンテストの参考作品として、主催者から依頼をいただいて書きました。

「はじめまして、御社が好きです。何か力になれることがあれば連絡ください」

できの悪いスパムメールでしょうか?
いいえ、僕が20代の頃に送っていたメールです。

必死でした。広告会社につとめていながら、自分が納得のいく仕事ができず、「好きな企業に、自分から連絡したら流れが変わるかもしれない」と不器用にメールを送っていたのです。

そのうちの一社が、このnoteの主役である、大塚啓志郎さんが当時つとめていた出版社でした。大塚さんが手がけたを出張中の飛行機の中で読み、感銘を受け、何か恩返しがしたいと勝手に思い立ったのです。勢いそのままに1通のメールを送りました。たしか2011年ごろだったと記憶しています。

「はじめまして、澤田と申します。コピーライターをしています。みなさんがつくられた本が大好きです。この本を広めるために、わたしにできることがあればいつでもご連絡ください」

唐突すぎる

でも、これでも何度もメール文面を確認してから送ったんです。返事が来るまでドキドキして待ちました。数日後にメールをいただいた日の喜びを、昨日のことのように覚えています。そこから大塚さんとの付き合いがはじまりました。

当時大塚さんがつとめていた京都の出版社まで遊びに行ったり、大塚さんが東京に出張にきたときには一緒に食事したり。大塚さんが手がけている本の話を聞いたり、僕がつくっている広告の話をしたり。

いつしか大塚さんは僕にとって、何でも話せる同志のような存在に変わっていきました。そして、自然とこんな想いが芽生えました。

いつか一緒に本がつくれたらいいな。

時折、思いついたように書籍企画を見せるようになりました。どんな企画を提案していたんだろうと、パンドラの箱をあけるかのごとく当時の企画書を開いてみると…

生きるために必要のない言葉」。
とても嫌な予感がします。震える手でスライドを送っていくと…

絶対売れない

なんだこの企画。この本売れると思って提案してるんだとしたら、マーケティングのネジが外れている。頬をパッションフルーツのように赤紫色に染めながら、そっとデータを消去しました。とにもかくにも、芯をくった仕事をできていないと自覚していた時期です。書籍企画にも迫力が宿っていませんでした。

日々広告をつくるという仕事をして、クリエイティビティを磨いているつもりだけど、誰かに届いている手応えがない。売上やCPAといった数字目標だけ追いかけてむなしくなる。なんのために仕事をしているんだろうと、ふとした瞬間に考えてしまう。

一方で大塚さんもどんな本をつくればいいのか、そもそも本とは何か、編集者とは何か、今の会社に居続けるべきか、を自問自答しているようにも見えました。

大塚さんは27歳、僕は31歳。二人とも、仕事の混迷期に入っていたのでしょう。長い人生、突如として視界が悪くなり、足元がぬかるみ、泥に手をつき、動けなくなるときはあります。そんなときに、自分が迷っていることを伝えられる相手がいることは人生の灯火になります。

ところが2013年、僕が32歳のときに人生は激変します。生まれた長男に視覚障害があることがわかったのです。自分の子どもが全盲だなんて、全く想定しなかった。検査をし、入院をし、手術をし、慌ただしく日々がすぎていき、僕の人生は今までとはまったく違うものになっていきました。

仕事に集中できない。好きな本を読む気にもならない。気力とか覇気とか、気という気が湧いてこない。暗い孤島に取り残されたような、言いようのない不安に襲われ、感情は常にこんがらがったLANケーブルのようにグチャグチャ。何を着るとか、何を食べるとか、全部どうでもよくなった。

だけど人間のレジリエンスは大したもので、いつしか「息子に障害がある」ことが常態化していき、少しずつ新しい生活にも慣れていきました。

嵐が過ぎ去り、視界がすこしずつ晴れ始めた頃。僕は再び大塚さんに連絡をとるようになっていました。その頃には障害のある友人も多くでき、彼らの経験や価値観や生き方に強く興味をもち始めていました。

2014年に実験的にはじめた「ホワイトジョーク」という企画。これは、障害当事者がもっている「障害があるからこその笑い話」を集めるプロジェクトです。

視覚に障害のある方が、ペリエと間違えてポン酢を飲んだ話。
義足の方が自動車と軽く接触して、義足がスポンと外れたらドライバーが「ぎゃー!」と叫び、「あ、平気っすよ」と義足をスポンとなおすと再び「ぎゃー!」と叫んだ話。
脳性麻痺の影響で手が震えるけれど、お酒(サワー)を飲むときだけピタリと震えが止まる女性の話。

そんな愉快な話を収集するとき、かつて大塚さんが「障害のある方の夢」を集めた冊子をつくっていたことを思い出し、声をかけたのです。大塚さんとの交流が再びはじまりました。

気づけば僕は、福祉の仕事にのめりこんでいきました。2015年には「世界ゆるスポーツ協会」という法人を立ち上げ、障害のある友人や息子も楽しめるスポーツをこれまで110競技以上発明してきました。

クリエイティビティは数字のため(だけ)ではなく、大切な誰かのために使えばいい。そんなシンプルな答えが、自分の人生を進めてくれるエンジンとなったのです。

一方大塚さんにも大きな変化が起きていました。2016年に独立して、自分の出版社を立ち上げたのです。創業メンバーは4名。兵庫県明石市に生まれた、その小さな出版社の名前は「ライツ社」。

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一番左が大塚さん

ライツ社立ち上げ半年ほど前に、東京にきていた大塚さんと会うことになりました。夏の訪れを目前にひかえた、おだやかな陽気の日。待ち合わせ場所の虎ノ門ヒルズに行くと、二人がけの編み込みベンチに横たわり、肩で大きく呼吸している男性がいました。大塚さんでした。

「え、大丈夫ですか!?」「あ、扁桃腺がはれて…はぁはぁ…高熱が出てしまって…」「病院に行くか、ホテルで休んだ方がいいんじゃないですか!?」「いや…はぁはぁ…全然大丈夫です…」

大塚さんは真っ赤な顔で、これから立ち上げるライツ社のコンセプトや構想の話をしてくれました。そして言いました。

澤田さんの本を出したいです

ヨロヨロと大塚さんが乗り込んだタクシーを見送りながら、僕は大塚さんの体調を心配すると共に、胸が熱くなりました。大塚さん無事に帰れるだろうか。大塚さんと、いい本がつくりたい。大塚さん、早く回復しますように。大塚さんと、絶対にいい本がつくりたい…。

その後ライツ社は、破竹の勢いでベストセラーを連発しました。『毎日読みたい365日の広告コピー』『売り上げを、減らそう』『リュウジ式悪魔のレシピ』。小さな出版社は、ゴゴゴと音を立てて走り始めました。

そして忘れもしない2019年6月7日。多くのビジネスマンで賑わう田町のサンマルクカフェで再会したとき、大塚さんはこう切り出しました。

「澤田さんによる『クリエイティブの本』をつくりましょう。資本主義に伴走するだけではなく、本当にだれかを幸せにすることができるクリエイティブの本を

この時点で、出会って8年。機は熟したのです。

それから2年近くの時を積み重ね、2021年3月3日に一冊の本が誕生しました。タイトルは『マイノリティデザイン』。

このタイトルに決まるまでに、この表紙に決まるまでに、内容を詰めながら、とにかく何度も何度も大塚さんと話し合いました。印象的だったのは、大塚さんの「本のプロ」としての姿を何度も見ることができたことです。

この本は、膨大な情報を発散するところから始まっています。大塚さんとライターの大矢幸世さんから何度もインタビューを受け、僕自身も「この仕事やあんなエピソードも盛り込むといいのでは」という資料をまとめる。自分の人生を丸ごとアウトプットしたような感覚です。

どうやって編集していくんだろう?情報の取捨選択をするんだろう?と思っていたら大塚さんが言いました。

「安心してください。いい材料を、おいしく料理するのが僕らの仕事ですから」

その言葉通り、初稿(最初の原稿)が送られてきたときに「なるほど!」と膝を打ちました。

混沌とした一人の人生は、こうして読み手に伝わりやすい本に姿を変えていくんだ。むしろ本の編集というよりは、僕の人生をまるごと編集して頂いたような感覚でした

それは、大塚さんだからできた。
いや、大塚さんにしかできなかった。

僕のカッコ悪い20代や、障害のある息子が生まれた絶望期も含め、近くで見てくれていたからこそできる人生編集だった。そこにはもう、本の作り方に悩む20代の頃の大塚さんはいませんでした。

さらに大塚さんは息子に二つのプレゼントを用意してくれていました。

一つは、彼の誕生日に合わせて本を完成させてくれたこと。
もう一つは、表紙に「マイノリティデザイン」という点字を入れてくれたこと。

この本の終盤で、僕はこう書きました。

走馬灯という「人生最後のメディア」に入り込める仕事がしたい。

10年という歳月をかけて大塚さんとつくったこの本は、間違いなく僕の走馬灯に出てきます。

できの悪いスパムメールを送った10年前の自分よ。
その一歩は君を、随分と遠いところへ連れて行ってくれたよ。

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